ちょっと長いです。今回は前エントリー『人権擁護法案ポジションMAP』の続編であり、かつ人権擁護法案についての自分なりの総括です。
拙ブログにて反対運動に辛口エールを送ってからかれこれ2週間が経過したわけですが、正直もうエールなんか送ってる場合じゃないっすね。『感情的拒絶派』がここまで「サヨク的」だったとは予想外、というか予想をはるかに超えちゃってました。
当初反対派が叫んでいたこの法案の「恐ろしさ」についてはもう「客観的分析派」の皆さんがほぼ論破し尽くしてる感があります。
人権委員会の選定手続きはとりあえず国務大臣よりは厳正だし、人権委員会に警察以上の権限があるなんてのも明らかな誤りだし、人権の定義が曖昧なんてのも現行法の侮辱罪やら名誉毀損の方がよほど曖昧じゃんって話でほとんど決着済みです。もちろん議論の余地はたくさんあるにせよ、少なくとも「法案提出さえも断固許せないほどの悪法」である論理的根拠は既に失われているわけです。
またまたBewaad氏の引用になり恐縮ですが、『人権擁護法反対論批判 後編下』における西尾幹二氏への批判が、感情的拒絶派の法解釈のお粗末さを象徴的に表してます。以下抜粋。
一読しかしないからこんなテキストになってしまうのですよ(笑)。法律の専門家にアドバイスを受けつつ、何回か読んでください。
この一文は、「法律の専門家なら誰だってこんな誤読はしない」という事を暗に示唆している重要な指摘です。そしてそれを裏付けるように、こういった「誇大妄想」に与する「法の専門家」というのは今までのところ実際見当たりません。
少しくらい誤りを認めても反対運動はまだいくらでもやりようはあると思うんですが。
というか、専門家の意見はむしろ積極的に取り入れた方がいいと思うんですが。
なんで論点ずらしにやっきになるか、完全スルーするか、のリアクションしか無いんでしょうね。
そういうやり方は
”元記事の正当性を証明できないのに「問題は政治圧力があったかどうかだ」と論点をずらして非を認めない朝日新聞”
と同じくらい見苦しいという事は自覚して欲しいと思います。
と、ここまではいささか辛らつな内容になってしまいましたが、正直『感情的拒絶派』に対して理解できる部分もあります。
結局彼らは解同、創価学会、総連といった見えないモンスターに恐怖しているわけです。なぜ「見えない」モンスターかというと、言うまでもなくマスコミが報道をタブー視しているからに他なりません。
筑紫哲也が「屠殺場」発言で1年の長きにわたって苛烈な糾弾に晒され続けた事件や、最近では拙ブログで取り上げたサンデープロジェクトでの間抜けな謝罪劇がありました。
創価学会に関して言えば、公称350万部の聖教新聞、80万部の公明新聞、その他多くの出版物の印刷の発注、広告出稿を通じて、大手メディアは進んで創価批判の自主規制を敷いていると言われています。利益誘導型タブーというヤツですね。
結局一般庶民は一部ジャーナリストの著作やネットの情報を頼りに、見えないモンスターの全貌を想像する以外にない。見えないモノについていくら議論しても噛み合わないのは当然です。
このあたり、plummet氏の指摘が的を射ている気がします。『ちょっとだけ主張の向こう側が見えてきた?』より以下抜粋。
なんてことを書いている俺も、実は「叩くなら差別利権だ、そこしかない」とかつて書いていたりする。んが、それだって確定的な証拠があってのものだからなぁ……誰それが推進しているからこれこれの目的があるに「違いない」って段階で陰謀論めいてて信頼性ないし。対案・修正案の方向に持って行けばという気がしないでもないが、そっちへ行かなかった……
利権を理由に反対するなら、過去の差別利権行為にまつわる証拠とか持ってこないとねぇ……まぁ難しいよなそれは。
結局、こういったタブーの殻を打ち破って新聞やテレビが当たり前に解同や創価の(批判含めた)報道をバンバン出来るような環境になれば、ここまで過剰な「感情的反対論」は起こらないと思うわけです。つまりこの反対運動は一般庶民の「よくわからんけどオカシイと感じる”直感”の発露」だと。
というわけで、私が前から主張していた『人権擁護法案時期尚早論』に繋がります。まともな「人権論議」が出来るようになるには、もう少し社会が成熟する必要がある、と思うわけですな。ここまで巨大な「タブー」を抱えた国など欧米には無いわけですから。
人権擁護法案を素直に読めば、そのコンセプトを一言でわかり易く言うと
「これまで放置されてきた(現行法においても)不法行為と見なされる人権侵害を、見過ごさない体制を作る」
という事なんだと思います。この解釈に異論は無いですよね。
で、この法律が施行された場合、やはり最も有効に機能する場所に「ネット」があるわけです。確かに目に余る誹謗中傷や差別発言が溢れているのは事実ですから。そして人権委員会が何件かの悪質な「ネット発言」を勧告・公表に踏み切った場合、それが見せしめとなってある程度ネット全体が「萎縮」するのは容易に想像できます。さて、今の法案推進派の中で、このネットに対する「牽制効果」を喜ばない勢力があるでしょうか?
「解同」「創価」「総連」「民主党w」「マスコミ」に至るまで、現状の「ネット」を快く思っていないのは自明です。この点に関しては利害が一致するわけですよね。結局小倉弁護士がこの法案について語った
はっきり言ってしまえば、人権擁護法案での差別規制が導入されて困るのは、匿名の陰に隠れて特定の者に人種差別的な表現を投げつけて嫌がらせをしている人たちや、匿名の陰に隠れて特定の人種等に対する憎悪を煽ってその者たちに対して差別的な処遇をするように呼びかけたりしている人たちだけではないかと思われます。
という一文が最も的確にこの法案を言い当てていたのかなと今更ながら思います。そこは今となっては同意しますがしかし….
一方で、今の日本の「タブー」を打ち破る原動力もネット以外に考えられないわけで。そう考えるとやっぱり結論としては「時期尚早論」に戻っちゃうんですな。逆に人権擁護法案が今通っちゃうと、この「タブー」がさらに末永く続いてしまう可能性が高まってしまいます。うーんやっぱり順番逆。人権法案は後。
このあたりの主張をいくらか補強するネタを一つ。民主党江田五月議員が2001年の解同定期大会で発言した内容。(江田氏のメールマガジンバックナンバーより)
「部落差別に関するインターネットの書き込みは、許せない人権侵害です。一日も早く、独立した人権救済機関を設置し、こうした事態に対処できる仕組みを整えなければなりません。国内でも国際社会でも、法と正義を実現する新しい仕組みを作る時です。ピンチをチャンスに変えましょう。」
前回の法案提出の時から、インターネットはターゲットの1つだったわけですね。
最後に、この法案が可決しちゃったら、の話。
まあ、通っちゃったらそれはそれでそれほど悲観的になる事もないと思ってます。そのあたり極東ブログさんがうまい事おっしゃってますので抜粋。
私は、この手の危機感に、どうにも拭えない違和感がある。
その違和感の核心は、私は思うのだが、悪法が成立したら、そんなもの、シカトしてやればいいじゃん、ということ。
御意。今だって70万人が放送法をシカトしてNHKに抗議の意を表明してますね。
海老沢だって、国民に罷免権なんてなくても事実上世論が引き摺り下ろしたわけです。
国民年金法だってシカトされまくって国民の4割が未納だし。
まあ、単純に比較できないかもしれませんが、例えば。
万が一、香ばしい人権委員会が構成されて、アホな勧告を乱発して国歌斉唱を普通に指示した学校の校長先生やらが勧告公表された場面なんかを想像してみましょう。
そんな時は、公表されちゃった人にはみんなでFAXやらメールやらで「GJ!」とでも激励してあげればいいわけですね。
そんで、人権委員会に世論が大ブーイング突きつければいいんですよ。法律なんかより、「世論」のプレッシャーの方がはるかに強いんですから。
人権擁護法案の反対集会は今日でしたね。まあ、今後も紆余曲折あるとは思いますが、私の主張はここから大きく変わりそうもないのでとりあえずここで一段落、とします。