まず、当ブログにおける前記2つのエントリーにおいて、『「水からの伝言」を信じないで下さい』の著者である田崎晴明先生、並びにその関係者各位の皆様に対して不快感を与える表現があった事を心よりお詫び申し上げます。
当該エントリーを書いた動機は他のところにありましたが、結果として議論に不要な多くの感情的反発を招いてしまった事はひとえに書き手である私に責任があります。申し訳ありませんでした。
尚、この総括エントリーを書くに至った経緯については、前エントリーのコメント欄におけるやりとり があります。もしご興味のある方はそちらをご覧下さい。
また、田崎先生へのご提案として当ブログで使用しているWEBサーバをミラーサイトスペースとして提供する案を考えていましたが、Google検索の問題については既に復旧した様ですね。なので、現状では必要無い状況になってしまいましたが、将来的にまた状況が変わった場合にはいつでも対応する用意がありますので、その時はいつでもお声をかけてください。
この総括をどういう視点で纏めるかについては、おおいに悩みました。書きたい事が多すぎたからです。ただ、単なる謝罪記事にも弁解記事にもしたくなかったので、今一度私の問題意識をアプローチを変えて「リテラシー」という視点に絞って述べてみようと思います。
そもそも、リテラシーとは何でしょうか。gooの英和辞書によると以下の様に説明されています。
literacy: 読み書きの能力; 教養
まさに私が問題にしたかったのは純粋な「リテラシー」であり、言い換えれば、
「読み手に真意をいかに端的・的確に伝えるか=書き手のリテラシー」
「印象操作や、まやかしのレトリックを排除していかに真実を読み取るか=読み手のリテラシー」
についての考察です。故に「科学」の問題ではないのです。
ここで話を「水からの伝言」に戻しましょう。
このエントリーを書くにあたり、水伝に関する過去の議論をいくつか読ませていただきました。それらを読む限りでは、水伝が問題視されている最も大きな要因は、この話が「学校の授業」で取り上げられている点にある様です。
私も同感で、水伝が学校教育の現場で用いられるのは問題があると思います。
水伝を教育の現場で使わないようにしてもらうには、教育関係者にその真意を「伝える」必要があります。教育関係者が皆納得するような「根拠」を提示すれば、大きな効果を挙げる事になります。
それでは何故、水伝が教育現場で取り上げられるのが問題なのでしょうか。
その理由について、田崎先生は「水からの伝言を信じないでください」 の中で、以下の様に書いています。
つまり、ちょっと過激な言い方をすれば、「水からの伝言」を使って道徳の授業をしようと思ったら、
どうしても、生徒たちに「ウソ」を教えなくては、ならないのです。道徳の授業で、
先生が「ウソ」を教えるのは、とても、とても困ったことです。
また、大阪大学の菊池先生は 「水からの伝言」を教育現場に持ち込んではならないと考えるわけ というテキストの中で、
1. 明白にニセ科学であること
という理由をメインに挙げ、それ以外にも9つの理由を挙げています。
それら全て理由として理解はできるのですが、なんというか「一番重要な点」が抜けているような気がするのです。少なくとも私が理由として考えているものは、挙がっていませんでした。
そもそも「ウソ」を教える事が本当に「とても困ったこと」なのでしょうか?
初等教育の現場においては、敢えて「ウソ」を教える事がしばしばあるのではないでしょうか?
例えば、「赤ちゃんはコウノトリが運んでくる」という伝説があります。
これは古くから初等教育における方便として使われてきました。
こんな方便が現在も使われてるかどうか定かではありませんが、子供にそう説明した教師がいたとして問題視されるでしょうか?
少なくとも「パパのおちんちんがママの…」などと教えた方が問題になりそうです。
他にも「サンタクロースはいるか」とか。子供に「ウソ」を教えたり、「事実」を言わない場面って意外にあると思うのです。
それらの例に思い当たったとき、「ウソだから」という理由だけではイマイチ説得力が弱い。
私が水伝を教育に持ち込んではいけないと思う一番の理由は、この話が一民間企業の「営業ツール」だからです。
「この話はそもそも一民間企業が言いだした話で科学的には明確に否定されています。
その企業はこの話を拠り所にして書籍や高額な機器を販売して利益を上げています。
そのような話を公的な教育機関が子供達に教えて蔓延させ、結果的に一民間企業の営業に加担してしまっているのは重大な問題です」
と説明した方が教育関係者にも問題点が直感的に「伝わる」のではないでしょうか。
次に、伝える相手を「一般大衆」に拡げた場合について。
反証実験が必要かどうかの議論はひとまず置いて、その前段の話について2点ほど気になった事を述べておきたいと思います。
私は一連のエントリーの中で、「翻意させる事を目的にしない」という事を繰り返し言いましたがその真意が伝わっていない気がするので補足します。
前述した菊池先生のブログでは、かなり以前から反証実験の是非が議論されていた様なのですが、その中で興味深い記事がありました。
もう一度、実験について というエントリーの中で、反証実験の目的を整理した部分です。以下抜粋。
(1)江本グループに見せて、「違うぞ」というため
(2)ビリーバーに「反証」として示すため
(3)半信半疑くらいの人に「実際には本のとおりにならないんだよ」というため
(4)「水伝」と関係なく、教育のため
私が想定していたターゲットは上記には含まれていません。
上記に付け加える形で書くならば
(5)まだ「水伝」を知らない人に先にカウンターを示すため
です。
理由は2つ。
- 社会全体を俯瞰すれば、まだ「水伝」の話を知らない人の方が遥かに多いと思われる事。
- まだ知らないうちであれば、「水伝」の話を信じそうな傾向の人でもすんなり受け入れる可能性が高い事
水伝の話を日本国民の半数以上が知っている状況でない限り、
信じている人+半信半疑の人+信じてない人<まだ知らない人
となるはずで、であれば最も多い層をメインターゲットに設定するのは利に適っています。
そして、まだ知らなければ「信じないでください」という提言を固く拒む理由は無くなります。信じやすい傾向の人は、基本的にメディアなどからの情報を「取捨選択する」意識が低い人(そしてそれがおそらく一番多数派)のはずで、だとすれば先に反証を刷り込んでしまうのが一番効果的と考えます。
もう1点だけ。
各所の記事や議論を読んでいて、「こんなのを信じちゃう人には科学の基本からちゃんと教え込まないと」的な発言を多く目にしました。学校教育に限定した話であれば有意義かとは思いますが、それを一般の人々に向けて行おうという話であればその考えは捨てた方が良いと思います。
なぜなら、教育というのは教える側と教わる側の目的が一致して初めて成り立つと思うからです。学ぶ気がない人間に無理やり何かを教え込もうというのは、一言で言えば傲慢であり反発を買うだけだと思います。
なんだか纏まりの無い文章になってしまいましたが、最後に。
田崎先生のテキストを読んで気になった点については、レポートの形に纏めて私信として後日お送りしようと思っています。先生は前エントリのコメント欄にて、
「一つのバランスを達成していると思っているので、大きな変更はしないと思います。」
とおっしゃっていましたが、「一つのバランスを達成している」というのは私も同感です。
ですから、修正等を求める意図は毛頭ありませんが、何かのご参考になればと思う次第です。
この話題をエントリで取り上げる事はおそらくもう無いと思います。まったく議論が噛み合わなかったのは少々心残りでしたが、お騒がせして申し訳ありませんでした。これも「書き手のリテラシー」の問題ですね。以後、自戒します。