レッシグ氏に、YouTubeについて質問してみた

昨日、札幌市立大学が主催する産学連携公開講座というのに出席したのだがなんと講演者はあのローレンスレッシグ教授だった。講演のあと質疑応答の時間があったので、レッシグ氏にYouTubeについての見解を訊いてみた。
レッシグ氏がYouTubeをどう見ているのか、以前からメッチャ興味があったのだがまさか自分が直接質問する機会に恵まれるとは夢にも思わなかった。巡り会わせというのは不思議なものだ。
以下は、私の質問とそれに対するレッシグ氏の返答。私の英語力ではあまりに心許ないので、当日の伊藤穰一氏の同時通訳をベースに一部筆者の意訳を交えながらテキストに興してみる。
(録音ソースがあるのでpodcastしたいところだが今のところは保留。主催者側を通して許諾願いは出してみる。)


-J2
(簡単な自己紹介の後)
今、日本でもYouTubeという動画サイトが大変な人気なんですけれども、レッシグ先生から見てYouTubeっていうのはどういう存在なのか、ぜひお聞きしたいと思います。
-Lessig
複雑な気持ちのMIXだ。
一つはYouTubeによって、クリエイターがコンテンツをより簡単に配信するという事を行えるのは良い事だ。
しかしながら、彼らはビジネスモデルの中でかなり法律ギリギリのところでビジネスを行っていて著作権違反のものがたくさん載っている事を理解した上で彼らはビジネスを進めている。
その結果、おそらくは国に対して、もっとYouTubeみたいな使い方をlimitする方向に法律を変えようというプレッシャーが掛かってくるのではないか。
今までのところYouTubeというのは訴えられるとか裁判というのはまだそれほど起きていない。
どちらかというとコンテンツ企業側はYouTubeと契約をして、自分達のコンテンツが配信されればそれによって自分達の売上にもそれが反映されるという方向で模索しているようだ。
例えばワーナーミュージックがYouTubeと契約をして、限られたエリアの中でワーナーミュージックの一部コンテンツがReMIXされたものはYouTubeに載せる事が出来る。
ワーナーによるコントロールが効くエリアの中で行われているという意味では、我々が求めているオープンなシェアリングではなく、結果的には契約に基いたコントロールがまた強まっていくのではないか。
YouTubeは、(コンテンツ)シェアリングの一つのあり方を社会に提示している訳だが、これを社会全体が見て、自分達が求める未来かどうかという検討をして、いろいろな企業が集まってやはりこういうスタイルは都合が悪いとなった時に、結局法律が変えられてYouTubeの様なビジネスがlimitされてしまう事が一番心配だ。


テキストを読んだだけでは伝わらない部分を少し補足すると、講演時や他の質問に対する答えに比べてこの時のレッシグ氏は歯切れが悪かった。注意深く言葉を選びながら話をしていた感じ。
YouTubeの有り方をどう位置付ければ良いのか、レッシグ氏も判断しかねている印象を持った。
返答の冒頭で即座に”mix”という単語が発せられたのが印象深い。
おそらくYouTubeが余計な刺激を与えてしまうと、結果的にレッシグ氏の活動にも支障が出かねないという心配が大きいのだろう。それも理解できる。
レッシグ氏の困惑は即ちビジネスマンと学者の発想の違いなのかもしれない。
ここまでのところかなりうまく立ち回っているとはいえ、依然としてYouTubeはリスキーな場所にいるんだなぁという事を再認識させられた。まだまだ予断を許さない。
しかし先の見えない勝負ほど見ている方は面白い。
このハラハラ感がそのままYouTubeの今の勢いに繋がっているのではないか。

日本のインターネット、「本当にヤバイ」部分

2ヶ月前に書いた「日本のインターネット、マジやばくね?」 の続き。
前回のエントリーは想像を遥かに超える反響で、投稿後5日間で10万PVを超えた。
まず本論への導入として、前回のエントリーを書いた意図についてちょっと説明しておきたい。
個人的な話になるが、私は1998年にとあるIT企業を退職し、その1年後、1999年からWEBビジネスに関わりを持つようになった。
で、その1999年当時と比べて、一般ユーザのネット環境が劇的に改善し始めた2003年以降の日本の状況に漠然とした違和感を感じていた。一言で言えば「バランスがとれていない」と感じていた。その違和感は今でも払拭されないままだ。そんな折、前回取り上げた日経コミュニケーションの記事をたまたま読んだ。そこでのIIJ鈴木社長のインタビューこそが、私が感じていた違和感をピンポイントで言い当てていると思った。ココがこの議論のキモだと思うので、あらためて引用する。

(引用者注:インタビュアーの発言)
■しかし安価な料金が日本をブロードバンドで世界一の地位に押し上げた。
(引用者注:以下鈴木氏)
「世界一安い」なんてバカげてる。安さばかりを追求しているのは日本と韓国だけだ
日本と米国のインターネットは全く違う。米国はインターネットを含め、プラットフォームの値段を安くする事には非常に慎重だ。Mビット/秒あたりの単価を見ても、日本は米国の30分の1。世界平均と比べると50分の1だ。米国はインフラに金が落ちているから破綻することはないが、日本は非常に危険な状況にある。

基本的に、値段が安く品質が良いというのは素晴らしい事だ。私だってその恩恵に与っている。しかしだからこそ、この問題は落としどころの難しいやっかいな問題なんだと思う。
ちなみに、私が前回引用した日経の記事で全面的に賛同できるのはこのインタビュー部分だけなのだが言葉足らずでその辺がうまく伝わらなかったみたいなので、そのあたりを中心に話を進めたい。
「バランスがとれていない」というのは具体的にどういう事か。
前回のエントリーでは「アクセス系と幹線系の収益不均衡」と表現したが、ちょっと言い方が悪かったかもしれない。WEBビジネスに携わっていて肌で実感していたのは、幹線系というよりはサーバ側回線(ファーストワンマイル)とのバランスの悪さだ。
1999年当時アクセス回線の主流はISDN(INS64)。いわゆる2B+Dいうやつで、通常の接続では回線速度64kbps。アナログモデム利用者も相当数いて、33.6kbps~56kbps。
対してサーバ側は、自社に置いて直接専用線を引き込むパターンが多かった様に思う。というか、当時のデータセンター(以下iDC)回線相場が判らないというのもあるのだが、普及型のエコノミー専用線で128kbps、T1回線だと1.5Mbps。
サーバ~クライアントというのは一対多の関係なので、不特定多数のクライアントリクエストがサーバ側で集束する事になる。当然サーバ側回線の方がより広帯域を求められる。計算上エコノミー専用線で64kbps2回線分、一応は「広帯域」だった。少なくともTCP/IPの1コネクションにおいてサーバ側がボトルネックになる事は無かった。月額3万数千円という価格でも1クライアントに対する帯域優位は最低限確保できたのである。
T1回線だと64kbps約24回線分の同時収容能力があって、それで月額30万円前後。そんな時代だった。
自分にはこの当時の感覚がベースとしてある。
翻って、昨今の状況はどうか。
まずアクセス回線は基本的にベストエフォート(帯域非保証)だが、実測値ベースで光回線がおおよそ数Mbps~数十Mbps位、ADSL/ケーブルだと数百kbps~十数Mbpsといったところか。価格はより安価になり、かつ回線速度は数百倍~数千倍と劇的に進化した。
対して、サーバ側はiDC設置が主流と言って良いだろう。ちょっと調べてみたがほとんどのiDCはネット上に回線価格を公表してなかった。探した中では唯一、eおおさかiDCが公表(PDF) しているのを見つけたのでそこから引くと、1Mbpsで¥115,500、10Mbpsだと¥304,500。それ以上は1Mbps増強につき¥21,000。
ホスティング事業者系で見ると、例えばAT-Link の場合20Mbpsで¥399,000。
確かにサーバ側回線も1999年当時に比べればかなり広帯域かつ安くはなっている。しかしそれでも実際に運用されている数からすると数Mbps~数十Mbpsのサーバ回線が殆どのはずだ。
具体的な統計データがある訳ではないが、前述したeおおさかiDCやAT-Link、それ以外の事業者の価格表を見ても回線メニューは10Mbps前後を中心に組まれている。という事はここらへんが売れ筋と推測できる。100Mbps以上が主流になっていればこんな価格表にはならないはずだし、私が実際に業務で抱えているクライアントにしても数Mbpsのバックボーンが殆どだ。大資本の企業サイトや主なポータルサイトを除けば、おそらくどこも似たような状況ではないか。
つまり、現在では1コネクションでさえもサーバ側回線がボトルネックになっているという状況が日本全国で当たり前のように起きているという事。サーバサイドの帯域優位が全然確保できていない。道路に例えれば、複数の3車線道路が1本の2車線道路に合流するようなもので、これは明らかに「いびつ」だ。この「いびつさ」がこれまでさほど目立たなかったのは、そこを流れるトラフィック量が極小だったからに過ぎない。複数の3車線道路が1本の2車線道路に合流したところで、殆ど車が通ってなければ渋滞は起きない。今後トラフィックが増えるに従ってこの問題は次第に顕在化してくる。
実はこの音極道茶室を運営しているサーバも、恥ずかしくて言えないくらいの極細回線だ。このブログへのアクセスは少なくとも90%以上の確率でサーバ回線がボトルネックになってるはずだが、テキストベースのブログ程度だから今のところ苦情は来ていない、というだけの話だ。
それでも月額¥60,000円の回線使用料をiDCに支払っている。でもって、月額¥5000程度のBフレッツ経由でオフィスにインバウンドさせている試験用サーバが桁違いにレスポンスが良かったりするもんだから、ますますアホらしくなる。帯域保証って何よ?なんか間違ってないか?
逆に、1999年当時の帯域優位性を現在のインターネットで実現する場合を考えてみるともっと判りやすい。
実測20Mbpsの光回線ユーザを基準に考えたとして、INS64に対するT1回線と同等の収容能力を確保しようとするとサーバ側には480Mbpsの帯域が必要な計算になる。1Mbps1万円で見積もっても、月額480万円。当時のT1回線の16倍近い額になってしまう
しかもブロードバンドコンテンツは基本的にユーザの帯域占有時間が長い。ネットで映画鑑賞までする時代だ。サーバ側に要求される帯域レベルは1999年当時より遥かにシビアなはず。これではとてもじゃないが小規模ベンチャー企業などは手が出せない。このままこの「いびつさ」が是正されなければ、ブロードバンド時代はプロバイダだけじゃなくサービス事業者にとっても受難の時代になる。
それにしても、GYAOは大丈夫なんだろうか。自前でインフラを持っているとは言え、ランニングコストがべらぼうにかかっているのは想像に難くない。さらに昨今の「ただ乗り論」の影響もあってか、直接相互接続していないプロバイダに対してUSENが独自にヒアリングを実施し、回答のあったプロバイダとはコスト負担についての個別協議が始まっているという。そんなコストは想定外のはずだ。
広告料にしたってそもそもテレビCM相場より遥かに安い上に、GYAOユーザ900万人が同時視聴したと(のべ人数なのでこれが実数では無いのは承知の上で)仮定してもテレビ視聴率に換算するとたかだか15%。
結局最後は有料アダルトコンテンツで稼ぐしかないのか?などと思ってしまう。なんとも虚しい話だ。
いずれにしろ、今後ますますインターネットのトラフィック量は増え続ける。GYAOが潰れたとしてもWinnyがネットから消えたとしても、それに替わるものが現れるだけだ。この流れは誰にも止められない。
そして、トラフィックの増加に伴って、「いびつ」な部分が顕在化する。基幹・中継インフラやファーストワンマイルに増強圧力がかかる。世界一早くて安いアクセス回線が普及してしまった日本は、他のどこの国よりもこの圧力が強い。
その増強コストを誰がどう分担するのか。
日本が固有に抱える問題を一言で言うなら、そういう事なんだと思う。
このエントリーを書こうと思った矢先、前回のエントリーでも引用させて頂いたmichikaifuさんがまたまたタイムリーなエントリーを書かれた。
Tech Mom from Silicon Valley – 「インフラただ乗り論」日米の違い より以下抜粋。

アメリカでは、ボトルネックはバックボーンでなく、ブロードバンドのアクセス部分だ
バックボーンが業者間取引なのに対し、これは消費者向けのサービスなので、
おのずとチャージできる金額に限界がある。

チャージできる金額に限界がある部分が、ボトルネックとして機能しているアメリカは健全だと思う。
そして、やっぱりココが日米の決定的な違いなんじゃないかという思いを強くした。
前回のエントリーの締めに書いた
「日本のインターネットに従量課金が復活するのは、すぐ目の前と見た。」
と言うのは、いささか極論だったかもしれない。
ただ、ちょっと補足すると、何もダイヤルアップ時代の様な従量課金が復活すると言っているのではなく、ある程度の転送量しきい値を設定した上で、それを超える「重度のヘビーユーザー」にさらなるコスト負担を求める事でトラフィック増大の速度を幾らかでも鈍化させ、同時にコスト面でもアクセスユーザから幾分かのペイバックを見込む、というのは現実的に一番妥当な落としどころではないのかな、と2ヶ月経った今でも思っている。

梅田望夫=○○○○説

私が初めて梅田望夫氏のご尊顔を拝見したのは、CNET JAPANブログ『英語で読むITトレンド』のトップ画像 だった。
2004年の初頭あたりだったと思う。
一目見たその時から、
「この顔には見覚えがある」
「というか、私はこの人を知っている」
という感覚があった。
梅田氏の写真は、「その人」にしか見えなかったのである。
しかし、つい先日、”梅田望夫” “○○○○”←(ここには「その人」の名前が入る)
でGoogle検索してみたところ、数件ヒットはしたものの「その人」との類似性を誰一人として指摘していなかった。驚いた。
みんなあえて気付かぬフリをしているのだろうか。
もしくは、これはタブーなのか。
それともGoogleを高く評価している梅田氏に気を遣って、Googleが自主的に八分ってるのだろうか。
Googleのイメージ検索で、「その人」の写真を見つける事ができた。
fukkun1_t.jpg
メガネも書いてみた。
fukkun1_glass.jpg
ラフな感じ。
fukkun2.jpg
というわけで…
梅田望夫=布川敏和説!
ごめんなさいごめんなさい。

日本のインターネット、マジやばくね?

結論から言うと、「かなりやばい」感じ。
実際、今の日本のインターネット中枢を支えるリーディング企業TOP達は相当深刻な危機感を抱いているみたいだが、その危機感がイマイチ一般人には伝わってこない。
しかし、内情を知るにつれ、その「深刻さ」が我々にも実感できる。以下、技術的な話に疎い方でも状況が理解できる様、できるだけ噛み砕いて解説を試みる。
まず予備知識として。アメリカのインフラ事情についてもこんな記事が。
オンラインでも「交通渋滞」の懸念–ビデオ配信量の急増を受け(CNET)
要するに、ブロードバンドコンテンツが本格的に普及してきた影響で、プロバイダの回線容量がもーすぐパンクするかも増強費用どうしてくれんだよやべーよって話。日本も根本的には同じような話なんだけど、日本の場合さらにお国事情が問題を深刻にしてる。その点については後述。
で、アメリカの状況に関しては、michikaifuさんの記事がとても参考になる。
「インフラただのり論」は「売り手市場」への変化点—通信が値上がりする時代がついにやって来る!?
注目すべきはこの部分。

中国やインドなどのもともと供給爆発がなかった地域では、すでに回線の逼迫状況が起こっていると聞いていた。しかしなんとついに、アメリカでもそういう話を、最近聞いたのである。

アメリカはそれくらい回線資源に余裕のある国だったという事。ちなみに日本には供給爆発なんてもちろん起こらなかった。それどころかYahooBBが起爆剤となって需要爆発が先に起こってしまった。これについても後述。
要するに日本とアメリカはそれくらい状況が違う。
さて。「アメリカでさえちょいヤバ」という状況を念頭に置いた上で、本題に入る。
日本でも最近、NTTのTOP達が「インフラただ乗りケシカラン!」とGyaOやSkypeを名指しでヤリ玉に挙げ、物議を醸した。日経の以下の記事が話題になった。
「インフラただ乗り」で始まるインターネットの新たな議論
上記記事は「ダイジェスト版」。日経コミュニケーションNo.456号にてさらに具体的な特集記事が読める。以下、WEBのダイジェスト版と、日経の本記事から適宜引用しながら話を進める。
名指しで批判されたGyaOを例に検証してみよう。
まず驚いたのが、GyaOのユーザ数。なんと2006年2月22日時点で720万を超えたという。総務省が発表した昨年9月現在の総ブログ登録者数473万人と比べてもその凄さが判る。
ちなみに日経本記事では、GyaOユーザ数は1月末現在650万人という記述がある。WEB版の方が最新データに差し替えられてるわけだが、これから換算すると22日間で会員が約70万人増加している事になる。1日あたり約3万2000人。これは凄まじい。この会員達が皆500k、1Mbpsといった帯域を占有するのだ。プロバイダ関係者がGyaOの話題で持ち切りになったというのもうなずける。
USENの二木CTOの話によれば、一ヶ月あたりのトラフィック増加が2Gbps。念を押すが総量でなく増加分である。IIJデータセンター札幌-渋谷間のバックボーンが2.4Gだから、データセンター拠点間の総トラフィックに匹敵する量が月ベースで増加している事になる。何度もしつこく言うが1ヶ月の増加分、しかもGyaOオンリーでだ。
さらなるデータを引き合いに出そう。
インターネットインフラにはIXという収束地点がある。プロバイダ間の相互接続などは皆ここで行われる。判りやすく言うとインターネットの大動脈みたいなものか。で、日本にはJPIX,JPNAP,NSPIXPという3大IXがある。日経本記事にはその3大IXの合計トラフィックというデータが紹介されているのだが、2001年末だとその合計値でさえ14Gbpsしかない。2001年末といってもそんなに昔じゃない。ちょうどWindowsXPが発売された頃である。
これが2004年末だと111.1Gbps、そして2005年末(2ヶ月ちょい前)には168.2Gbpsに跳ね上がる。
GyaOのトラフィック増加分を2Gbpsのままで計算しても、それだけで年間24Gbpsの増加。実際にはもっと伸びるかもしれない。一体2006年末にはどんな値になっているのかと考えると空恐ろしい。
まあ、トラフィックの増加だけであれば設備の増強でなんとかなる。しかし、やはり深刻なのはその費用の捻出だ。
GyaOはただ乗りと批判されているが、実際には相当高額なトランジット費用(プロバイダ間接続費用)を支払っている。じゃあなぜGyaOがただ乗りと批判されるかと言うと、トランジット費用はUSENと「直接」相互接続しているプロバイダにしか支払われていないからだ。このあたり、日経本記事には詳しい記述があるのだが、直接相互接続していないプロバイダにとっては、1円も実入りのない形でGyaOトラフィックを支える為の設備増強を行わなければならない。しかも直接相互接続していないプロバイダは(おそらく)零細プロバイダが多い。NTTのGyaO批判はそうした零細プロバイダの悲鳴を代弁したものだ。
なにしろ、(今ではだいぶ改善されてきた様だが)日本の幹線系回線費用からして高すぎる。100Mbpsの回線増強をしただけでも、地方のローカルプロバイダなどはこれだけで死活問題だ。
このままだと地方の零細プロバイダからバタバタと潰れていく。そして、行き場を失ったユーザが大手プロバイダに大量流入する。すると、大手プロバイダも予想以上の回線増強の必要に迫られ汲々とする。で、結局幹線系の回線使用料を大幅に値下げせざるを得なくなる。んで、結果NTTもやばくなる。USENはUSENで嵐の様に増え続ける自社ユーザの回線増強に加えてトランジット費用が膨れ上がって、みーんな共倒れ。
なんて未来にならない?このままだとかなりやばくね?
ここまでは、GyaOが悪者みたいな内容になってしまったかもしれないが、USENはちょっと損な役回りかもしれない。GyaOのトラフィックに関する具体的データもGyaOがオーソドックスな配信形態をとっているからこそ判るもので、データがある分叩かれ役になっちゃってる感もある。例えばSkypeの総トラフィックが今どれくらいあって、月にどのくらいのペースで増加しているか、なんてのは皆目見当がつかない。そういう不透明な要素がまた別の不安感を煽る。
結局GyaOは単なる議論のきっかけに過ぎなくて、日本のインターネットが抱える構造的問題が根本にある。
日本のインターネットの最大の問題は、YahooやUSEN、NTTが繰り広げた際限なきアクセス回線の価格競争と、それが引き起こしたアクセス系と幹線系の収益不均衡にあるんだと思う。
YahooBBが登場した時、誰もが採算ベースに乗るわけはないと思った。それくらい「ありえない」価格設定。しかし、Yahooは力技で乗り切った。街角でキャンペーンのオネーチャンがADSLモデム片手に勧誘するなんて光景はおそらく日本以外には見られなかったのではないか。
結局、シェアを伸ばしたYahooに他の業者も付き合わざるを得なくなり、意地の張り合いが始まった。記憶が定かではないが、B-フレッツにしても現在の価格はNTTが当初予定していた価格設定の半額以下のはずだ。
そのシワ寄せが幹線系の値下げを鈍らせた。アクセス回線で本来得られるべきだった利益を回収する為だ。日本の超安インターネットは、(不当に?)高い通信料金を払い続けたあまたの企業ユーザあってこそ成り立っているのである。
長くなってしまったがホントはまだまだ書きたい事はあった(広告収入というビジネスモデル自体ブロードバンドと相性が悪いんじゃねーのとかその辺)。
最後に日経本記事にあったIIJ鈴木幸一社長のインタビューから抜粋。日本の抱える問題が凝縮されている。

(引用者注:インタビュアーの発言)
■しかし安価な料金が日本をブロードバンドで世界一の地位に押し上げた。
(引用者注:以下鈴木氏)
「世界一安い」なんてバカげてる。安さばかりを追求しているのは日本と韓国だけだ
日本と米国のインターネットは全く違う。米国はインターネットを含め、プラットフォームの値段を安くする事には非常に慎重だ。Mビット/秒あたりの単価を見ても、日本は米国の30分の1。世界平均と比べると50分の1だ。米国はインフラに金が落ちているから破綻することはないが、日本は非常に危険な状況にある。

日本のインターネットに従量課金が復活するのは、すぐ目の前と見た。

ブログを書き続ける限り、未熟だった過去の自分から逃れられない

前エントリーに対する批判。
オオツカダッシュ:感銘を受けるエントリならば、何でもいいのか

音極道茶室: ブロゴスフィアのヨハン
こういう「優越感」と「侮蔑感」を剥き出しにしたエントリは、その正当性如何にかかわらず書くべきではないだろう。

なんというか、こういう「卑しさ」をあからさまにしたエントリを書く人が、他人の「卑しさ」を問題にする、そういうやり方から読み取れるのはまた別種の卑しさでしかない。

あるいは、立派なことを言ってるのかもしれないが、その立派さだけを消費してやりすごしていくようなことは、ソーシャルブックマークの弊害である。例えどんな立派な言葉であるとも、言動が一致しないところからは、何か価値ある議論になるようには思えない。きれいごとをそのまま消費して、はたしていかなる意味があるというのか。

この引用にある「ブロゴスフィアのヨハン」というのは、私がおよそ10ヶ月前に書いたエントリー。
はっきり言ってこの頃は、私が前エントリーに書いたような「自らの卑しさ」にまったく無自覚だった。
だから、こういうエントリーを平気で書けた。今でも書けない事は無いが、躊躇する。
この10ヶ月、様々な意見や新しい知識に出会ってきた。そこには自分自身の変化がある。それなりに成長はしていると思う。
ブログを書き続ける過程で自分自身の考えや振舞いが変化した時、それは同時に変化する前の自分と対峙させられるという事だ。過去の文章をアーカイブとして蓄積する限り、未熟だった過去の自分から逃れられない。
上記エントリーに限らず、1年近く前の自分の文章はどれもこっぱずかしいものばかりだ。過去の自分の文章を読んで恥ずかしさを感じたという経験は多くの人にあるのではないか。恥ずかしい過去の文章は削除するという選択肢もあるだろうが、そんな事は自分としてはしたくない。
ちなみに、私の小倉先生に対するスタンスは今でもそれほど変わってない。自らの卑しさを自覚した上で、言うべき事は言うつもり。
まあでも、たかだか10ヶ月前の自分でも今思えばいろんな意味で未熟だった。それは率直な思いです。しかしだからといって、それが今現在の自分の文章の価値を下げる事にはならないでしょう。トニオさんも、今後もし成長する事があるならば、いずれ自分の過去の文章に赤面する事もあると思いますよ。

『ホテル・ルワンダ』が役に立たない??

ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 – 『ホテル・ルワンダ』なんかまるで役に立たない!この人を見よ!
を読んで。
誤解を招くかもしれないのであらかじめ断っておくと、町山氏がリンクした先のブログ主を擁護する意図は微塵もない。
しかし、この記事に対するブックマークコメントには強烈な違和感を感じた。町山氏の行動が親切?丁寧??私には理解できない。
町山氏が取ったような行動が「評価」されてしまうところに、ネット上で起こる多くの不毛な衝突の本質があるような気がする。
今回の町山氏の記事内容には同意する。その主張は全くもって正論だと思う。
特に共感するのはこの部分。

このルワンダの事件を、遠いアフリカの出来事として観ても意味がない。
虐殺は、どこの国でも起こってきたし、これからも起こり得ることであって、
私たちは誰でも、人を差別して迫害する、虐殺の種を秘めているんだということを自覚し、
ルワンダみたいな状況になった時、ポールさんのように行動できる人間にならなければ。

しかし、当然この世の全ての人がこのような崇高な主張を理解できているわけではない。
否、「理解したつもりになっているが行動が伴わない人」も含めれば、この世の殆どの人が理解できていない。
町山氏は、なぜ件のブログへリンクを貼り、あのようなエントリーを書いたのだろうか?
前後の文脈から解釈すれば、「こんなどうしようもないバカがいますよ皆さん!」という意味以外にその意図を読み取れない。
これでは2ちゃんねるにありがちな「痛いブログを晒せ!」的なスレとメンタリティは何も変わらない。
結果的に件のブログへ大量のアクセスが流入し、ちょっとしたコメントスクラム状態になっている。ブクマコメントでは、ブログ主に対して「レイシスト」「キチガイ」などの一方的で醜悪なレッテル貼り。建設的な進展など期待できるはずもなく、不毛な衝突を誘発しているだけだ。
「私たちは誰でも人を差別して迫害する、虐殺の種を秘めている」と自覚しているはずの人が「無知」「愚か」な人間に対してかくも非寛容になってしまう。
これだからこの世から差別も迫害もなくならないのだ。
確かに件のブログ主の主張は明らかに「間違っている」し、「見識を改めるべき」である。「差別的言動」も端々に見られる。しかし、この人は本当にレイシストだろうか?
町山氏がリンクした先の記事を冒頭から引用してみる。もう一度冷静に読んでみて欲しい。

いや、映画はよかったです。
 こういう映画にありがちな、事実の再現のとどまっているだけの映画ではなく、エンターテイメントとしてもきちんとした作品に仕上がっていると思いました。
 ぜひ、多くの方に見ていただきたいと思います。

まず生粋のレイシストならばそもそも「ホテルルワンダ」を見に行こうとは思わないだろう。
それどころか、「多くの方に見ていただきたいと思います」とまで言っている。
私がこの人の文章から読み取ったのは、「若さ」「幼さ」である。
「嫌韓流」は読んで当たり前、普段も2ちゃんねるやmumurブログやアジアの真実なんかを熱心に読んでる若年層、みたいな印象。
正直、そんな若者は想像以上に膨大な数いるだろう。
好むと好まざるに関わらず、現実に大勢いる。
大勢いるが故に、比較的安易に自らの「正当性」を信じている。というか人は誰でも「自分は正しい」と思っているわけで、他人の考えを変える、というのはそう簡単に出来る事ではない。
ましてや、晒し上げのような取り上げ方でリンクしても反発を招くだけなのは自明だ。
真剣に差別や迫害を無くそうと思うのならば、それがいかなるベクトルであれ、憎悪や嫌悪を増幅させる方向には行動しない事が重要だ。
無知な若者のブログをリンクで晒し者にする行為は、結局新たな憎悪や嫌悪を生む。そういう意味で、町山氏の行動は全然親切でも丁寧でも大人でもない。
私なんかはむしろ、そういう「嫌韓」「反中」的ネット言論に感化された若者が
「ホテルルワンダ」を見に足を運び、「多くの人が見るべき」とまで言っている事に希望を感じる。
『ホテル・ルワンダ』は役に立たない??そんなはずはない。それは『ホテル・ルワンダ』に対する冒涜ではないのか。
町山氏の失望感は理解できるが、だからといって映画に八つ当たりして良いわけはない。
映画がどんなに素晴らしくても、人の考え方を一夜にして180度変えるのを期待するのは酷だろう。
人間は愚かだが、この映画は人間の叡智に満ちているはずだ。

ブックマークする名文しない名文

日々ネットを徘徊し、たくさんのテキストに目を通す。
そして、時に素晴らしい記事に出会う。
そんな時、多くの人はその記事をブックマークするだろう。
私の場合であれば、それらしいタグを付け賞賛の一言をコメントに添えてはてなブックマークに追加する。
しかし、ごく稀にそれを躊躇してしまう時がある。
言い換えれば、素晴らしいと感じつつも、その記事を「ブックマークしない」事がある。
例えば、圏外からのひとこと:WEB2.0サイト = 発酵食品説
例えば、Life is beautiful:Aクラスの人はAクラスの人を採用したがるが、Bクラスの人はCクラスの人を採用したがる
これらの記事を私はブックマークしなかった。
そして、これらの記事は私にとって特別だ。
極限までシンプルで、かつ力強いメッセージ。
それ故に内容が心に焼き付いてしまい、再読の必要さえ感じない。
私にとってソーシャルブックマークは、著者に対する「リスペクト」の表明という意味合いが少なからずある。
だからこそ、読み返す必要もないほど深く心に焼き付いた名文と出会った時、「ブックマーク」という行為はかえって失礼に感じてしまう場合がある。(そもそもブックマークとは「読み返す」事を目的とした行為だから)
ブックマークしない名文。
発想の指針となるシンプルなメッセージ。
本当に大切な言葉は、URLをはてなのサーバースペースに保存して満足している場合ではない。自分の脳裏にブックマークすべし。

下衆ヤバ夫 2005年の成人式祝賀スピーチ

世間的には今日は成人の日らしいっすね。
というわけで、アンタッチャブル山崎の伝説的キャラ、下衆ヤバ夫の「成人式スピーチ」ネタ全文テキスト起しを成人の皆様に捧げます。
このナンセンスパワーの前では、下流社会も人口減少もアジア外交も些細な事。人類の幸福の鍵は「下衆ヤバ夫」にあり。


(司会者:続きましてご挨拶いただきますのは、げしゅう…)
いやいや、あのー….ゲスです。えーっ
シモネタの下に公衆便所の衆で….ゲスです。えーっ
へっへっへっへっへっへ
(司会者:失礼いたしました。)
どんまいどんまい
(司会者 それでは、下衆ヤバ夫様より、新成人になられた皆様へのご祝辞を頂戴したいと思います。)
へっへっへっへっへっへっへ
えーーーーーーーー
ただいま、ご紹介に預かりました、
ゲス…やばおで…ゲス。
えっへっへっへっへっへっへっひーーーーーっはっはっはっはっ
へっへっへっへっかっかっか
す、すいません、ちょっとまってください
うへーーーっへっへっへっへ
ツボちゃんの方にはまっちゃいて、(言い直す)
ツボちゃんの方にはまっちゃいまして
えーーーっへっへっへ
えーー実はですね、わたくし
式に呼ばれていなければ、
さらにあいさつも頼まれておりません。
えーーーーわたくしですね
司会者の方の台本にですね
ちょこちょこっと小細工をいたしまして
今ここに立ってる次第でございます。
えー。ただですね、
えーえーえーただこんなことを言うとですね、
下衆の野郎、成人思いだなと。
やたら成人の事考えてんじゃねーかと。
明日から下衆の方にね、
足向けて寝れねえなー(言い直す)
寝れねえなーーーなんてね。
と多くの方は考えると思うんですよ。
ただですね、ご安心していただきたい。
私はですね
ただ単に
晴れ着姿の女性を
透視」する為に、やってまいりました。(会場がざわめく)
えっへっへっへっへっへっへ
えーーーー
じゃじゃーーーん!
下衆..メガネ..でございます。
えーえーえーえー
このメガネをですね、して、晴れ着姿を見るとですね、
その下のパンティちゃんが丸見えちゃんでございます。
えーえーえーえー
えーーー
ゲスっとなと。(下衆メガネをかける)
あーーーーーーーー見えますねえーーーー!!
えーえーえー
そちらの方なんて白じゃないですか。えーー??
えーえーえーえー。
あらら、またこれは黒ちゃんでございますね、えーえーえー
おおっと大胆、紫でまとめちゃって。
えー?へっへっへっへっへっへ
えーーーーというのは、
真っ赤な……ウソです。(ゲスです、の口調で)
えー、ただですねー、こんな事を言うとですね
えーえー下衆の野郎、2005年も冴えてるなと。え?
こんな夢の様なグッズを考えるなんてね、オマエはゲスえもんかと。え?
のびたはのびたでも?キャンタマのびた君かよと
お思いの方もいらっしゃると思いますけども、
ご安心ください。
えーわたくしこれ以上グッズは出せません。
えー、出せるとしたらですね、まあ唯一
♪デレデデッデレーーーー!
きゃーんたーまちゃーーーん(ドラエモンの声で)
ぐらいのもんでございます。えーえーえーえー。
えーえーえー
さてさてさて。
わたくし、
みなさんにですね、
お祝いの曲を、一つ、差し上げたいと思います。
えー。聴いてください。
「思い出がいっぱい」
(イントロが始まる)
♪ぬるい キャンタマのうらーにーー
♪隠れてーーーコオロギーーがーいっぱい
♪下衆ヤバ夫の夢はーー朝ーからー全裸ーでーー
♪ピザをとどーけるこーーとさーーー
♪おとなのキャンタマひーかるーー
♪それはもう シャンデリアさー
♪ふくろをあげればきっとーー
♪あぶらあげだと信じてるねーー
♪さかなへんに きゃーーんたーまーでーーーー
♪イクラと 読むのさーーー
(カラオケが無くなり、アカペラで)
♪さかなへんに きゃーーんたーーまーーでーーーーーー

♪イクラと

(溜めて)
♪きゃーんーたーまーーーーー
ふぅーーー(満足感のある溜息)
(司会者の冷たい視線に気付く)
え?

下衆です。


このネタはリチャードホールDVDのvol.4に収録されてます。

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住の安心を確保する最適解は「消費者向け民間検査ビジネス」の創出

まだ、このアイディアは全然ブラッシュアップしていませんが、前エントリーが予想外の反響だった事もあり、その後もいろいろ思考を巡らせて見てとりあえずの結論です。
※今エントリーでは、「ですます調」でいきますw なんとなく。
悪質リフォーム問題から始まって、次々と明らかになる談合体質、そして今回の耐震強度偽造事件…建築業界への信頼が地に落ちて前途真っ暗な印象を持ってしまう昨今ですが、信頼の失墜はそのまま「住環境の危機」として消費者に跳ね返ってくるわけでこれは誰にとっても深刻な問題です。
でもこれらの諸問題を解決するカギは、気がついてしまえばすごくシンプルな問題なんじゃないかと。
それが表題にもある、「消費者向け民間検査ビジネス」の創出です。この、「消費者向け」というのがポイント。こう書いてしまうとすごく単純に見えますが、実際のところ発想は単純です。
この発想のヒントになったのは、bewaadさんのエントリー
建築物の安全基準遵守に関する規制のあり方
のこの部分です。以下抜粋。

プリンシパル・エージェント問題の存在

プリンシパルとは依頼者、エージェントとは依頼者のために働く者のことですが、
エージェントにとっての利害とプリンシパルにとってのそれが同じ向きでない場合、
エージェントは自らの利益を優先させプリンシパルのそれをないがしろにする
インセンティブが働きます。本件でいえば買い手がプリンシパル、
検査会社がエージェントということになりますが、検査会社が買い手の利益に
なるよう厳しくチェックしても検査依頼が減るだけであれば、厳しいチェックを
期待できなくても止むを得ません。

これ読んで「なるほど」と思いました。検査会社が買い手にとってのエージェントとなり得ないのは実は当たり前で、それは「イーホームズ」や「日本ERI」にとってのクライアントが、最終的な買い手である「消費者」ではないからです。民間ビジネスが直接の「クライアント」の事情を汲んでしまうのは有る意味当然なので今後、どれほど検査手続きの見直しをしても、消費者保護という観点から見ればどうしても「限界」があるわけです。
そもそも、これまでの「構造検査」は、建築物を建てる上での法的手続きに組み込まれた「ルーチン」でしかなく、要するに「お役所仕事」をそのまま民間に発注しているだけのものです。彼らは「書類チェック」のプロであり、「建築」のプロではないわけですね。
それでも、「イーホームズ」の場合で見ると約120名の検査スタッフのうち、構造設計実務経験者が30名ほど在籍していると聞いており、わずかではありますが実務経験者が存在しているお陰で、今回の構造偽造問題発見に至ったと考える事ができます(これが前回のエントリーに繋がってきます)
そこで、「消費者向け民間検査ビジネス」です。「イーホームズ」や「日本ERI」に過度の期待をするのではなく、全く新しい消費者専門の民間検査ビジネスを立ち上げるのです。
文字通り「消費者」が直接のクライアントであり、様々な物件の様々な検査を消費者の依頼で実施してくれる企業・機関を創出・育成すれば良いのではないかという発想。
耐震構造だけでなく、リフォームの品質検査など、検査項目は消費者のニーズに合わせて揃えます。
重要なのは人材の確保ですが、このビジネスには設計施工の実務経験者だけを揃えます。今回の耐震強度偽造でも、「設計施工実務のベテランであれば直感的に異常だと気づく」という証言が複数なされています。
そんな「プロ」をどうやって確保するか。実は最適の人材がゴロゴロしてます。
それは、談合体質の崩壊によって過当競争に移行しつつある建設業界で、このままでは淘汰されてしまう中小の設計施工業者です。もともと日本という狭い国土には相応しくないほど建設業界は人が余ってますから、人材の確保は容易。彼らも今までの経験と知識を生かせるわけですからIT業界や介護ビジネスへ転身しなさい、などと無茶な注文をするより遥かに現実的です。
このビジネスにはもう一つの意味があります。それは、建設業界の信頼を失墜させた張本人達の受け皿にもなるという点。
例えば姉歯設計士などは、然るべき償いを終えてもらった後、三顧の礼をもってこのビジネスに迎え入れます。
世界一有名なサイバー犯罪者、ケビンミトニックがいまやセキュリティアドバイザーになっているのと同じ発想です。姉歯氏ほど「設計書偽造」の全てを知り尽くす人間はいないわけですからこのビジネスには最高の戦力になります。あまたいる悪質リフォーム業者も同じ。その手口を知る者を積極的に受け入れる事により、マイナスをプラスに転換できるわけです。
[追記]
コメント欄でのバイスさんのご意見に応えて。
このビジネスにおける民間検査は「設計段階」に限りません。そもそも設計書に100%忠実な「施工」が行われるとは限らないという心配もあります。「今住んでる私の家は大丈夫だろうか?」「まさにマンションを買おうと思ってるんだけどあの分譲マンションは信用できるんだろうか?」といった不安を抱えている人が日本中にいるわけで、そういう需要に対する供給をイメージしてます。(もちろん設計段階でもOKです。販売仲介業者が先取りして設計施工段階で審査を依頼し、それを優良物件の証とする販売戦略もアリでしょう。)
いま、政府で全建築物を再チェックするなんて話も出てますが、たとえそれが行われると仮定してもそのチェックが「ワンタイム」では今後の対策としてはあまり意味がありませんし、税金投入額も数千億円に及んでしまいます。
[追記ここまで]
まだイマイチまとまりが悪いですが、これが現時点で到達した私なりの提言です。
この発想を実現するには、障害がたくさんあるのかもしれませんがちょっと私にはまだ見えてません。
コメント欄等でツッコミいただければ幸いです。

「パクリ」について熱く語らせてくれ

私にとって、「パクリ」考察はライフワークである。
音極道本サイトの「模倣道(パクリ道)」 も、私なりの遠大なテーマを持ってやっている(まだ2つしか発表してないけど、てへ)。
だからこそ、Blogで安易に「パクリ」について語る事に慎重になっていた。書きたい事が多すぎて収拾がつかなくなりそうだというのもあった。しかし、私の「書きたい衝動」に火が着いた。きっかけは以下の2つの記事だ。
benli:パクリ問題と興奮した第三者について
たけくまメモ:許される模倣・許されない模倣
今は殆ど活動してないとはいえ、私も一応音楽家の端くれだ。創作者サイドの一人として、たけくま氏の見解には諸手を挙げて賛成。そして、昨今の短絡的なパクリ騒動の数々に対しては、小倉先生と同様の危機意識を持っている。(ここまで小倉先生に共感できたの初めてかも)
今回のエントリーでは法的な話は一切置いておく。「作り手」から見たモラリティとして道義上どこまで許せるか、許しがたいかの話に限定する。
まず、大前提として正しく認識して欲しいのだが、音楽、マンガ、小説など、あらゆる分野における創造物の99%は「広義のパクリ」であるという事。これは私の兼ねてからの自論でもあり、奇しくも竹熊氏の言う「厳密な意味でのオリジナルは、この世に存在しない。」という一文ともかぶる。多分、何らかの創作活動に従事していない人にはピンとこない話だろう。できるだけ伝わる様に解説を試みる。
坂本龍一はかつてこう言った。
「現在、ひとつのメロディーとか、ひとつの音楽の中に本当にある個人が創ったと言える所がね、言える部分がね、何パーセントくらいあるだろうかって良く考える事がある。よくても5パーセントくらいだと思う95パーセントは伝統、過去のもの。」
(元ソース失念。引用はこちら から)
この言葉は、実感として良く理解できる。例えばトランスの曲を作るとなった場合、その時点でリズムパターンやアレンジ、テンポなどの要素における選択肢が大幅に絞り込まれる。既にフォーマットがあるのだ。それはまさに先人達の遺産に他ならない。そこから先の要素でオリジナリティを発揮するとしても、全体から見た比率はわずかである。
5%という数字は感覚的な話なので定かではないが、坂本龍一に敬意を表して5%をベースに考えよう。
作品や作者によって、この比率が3%になったり10%になったりする事はあろう。いずれにしてもあらゆる「創作物」は わずかなオリジナリティ+既存のもの の組み合わせで出来ている。しかしながら、その「わずかなオリジナリティ」を出すだけでも、創作者は大変な「生みの苦しみ」を味わう。締め切りが迫っている時などは、まさに地獄の苦しみだ。
そして、私が思う「許せないパクリ」とは、この「生みの苦しみを回避するような盗用行為」である。
では、最近騒ぎになった末次由紀氏 の場合はどうだろうか。漫画家が作品を作る場合、まず作品のテーマ、舞台設定、キャラクタ設定で生みの苦しみを味わうだろう。連載の度にストーリー展開とセリフ回し、コマ割にいつも悩まされるだろう。逆に言うと、それ以外の部分は、漫画作品にとっては枝葉末節だ。
だからこそ、漫画家の大先生がネームだけ書いて、あとはアシスタントがやっても許されるわけだ。まあ末次氏のスラムダンク構図盗用の場合は、コマ割も含めて盗用している部分もあるので幾分悪質かもしれないが、ストーリーやセリフ回しの盗用ならともかく、背景や構図のトレース程度で漫画家としての「生みの苦しみ」がさほど軽減されるとは思えない。第三者が大騒ぎして、連載中止や絶版・回収にまで発展するのはやはり行き過ぎの感がある。
さらに今は、騒ぎが飛び火してネタ元のスラムダンクのカットがまたNBA写真のトレースだとか一部で騒いでいるらしいが、ここまで来るとさすがに唖然としてしまう。
考えても見て欲しい。
「あ、このカットこの写真のトレースじゃね?」
「重ねてみようか」
「あ、右手が重なってないね。左足のとこも違うね。トレースじゃないね。井上雄彦さすがだね」
「あ、このカットはガチだね。重なるね。井上雄彦最低だね」
てか?アホか。漫画の価値ってそんなところにあるのか?
じゃあ何故「魁!クロマティ高校」は糾弾されないのか。(もちろんこっちも糾弾しろという意味ではない)あれだけ同じタッチの絵を描くには、トレースが多用されていても不思議は無い。パロディだとトレースも許される?何故?論理的に説明できる?説明するとしたら、「ギャグ漫画としてのオリジナリティがあるから」ではない?だったら、その正しい感覚をもうちょっと広げてみようよ、と声を大にして言いたい。
今の様なネタ探しごっこばかりエスカレートしていったらやがて音楽でも、この曲の中間部のドラムフィルが、ツェッペリンのパクリだ!とか始まりかねない。
今のご時世に佐野元春や岡村靖幸がニューカマーとしてデビューしていたら、真っ先に潰されていたかもしれない。彼らには元ネタが判る曲も幾つかあるが、いずれも私の大好きなアーティストだ。彼らが20世紀にデビューしていて本当に良かった。
小倉先生は前述のエントリーで
「ポピュラーミュージックの世界だと、むしろ、聞き手が「元ネタ」に気付いてにやっとするみたいな反応をすることが多かったので、」と述べている。ホントにその通りなんだけど、昔と今が違うのは、やはり「ネット」の存在だ。
一般庶民が、恐ろしく伝播力の強いメディアを手に入れてしまった。昔は「元ネタ」に気づいてニヤっとするだけだった音楽ファンも、今の世だったら、ネットで公表する誘惑に勝てないかもしれない。
いや、実際末次由紀氏の件にしても、最初に発見した人はある意味スゴイなとは思う。よく見つけたね、と。見つけた本人も「うわ、すげー発見しちゃった」と思い、公表したい誘惑にかられるだろう。自分が火種になってネットで騒ぎになれば、一時の高揚感を得られるかもしれない。しかしその代償として、有望なクリエイターが一人消えていくかもしれないという事も意識して欲しい。
とはいえ、今の音楽シーンには1%のオリジナリティさえ探すのが難儀な「既聴感」に満ち満ちた音楽もけっこうある。たいていの場合、具体的な元ネタが無くとも先人達の遺産を適当に組み合わせただけで作られた音楽である。そういう音楽は元ネタが判らなくても私にとっては「パクリ」だ
元ネタがあるかないか、は創作にとって全然重要じゃない。重要なのは「わずかなオリジナリティ」。創作者の価値はその一点だ。
ネットは今や庶民にとって、とんでもない武器になる。だからこそ昔以上に、審美眼というか、正しい知識と判断力を身につけて欲しい。批判精神を持つのは良い事だと思うが、批判には常に責任が伴う。知性無き批判は暴力になり得る。
漫画家がどんどん糾弾され数を減らし、漫画雑誌が次々廃刊になり、ミュージシャンの数も今の半分くらいになってしまう世の中なんて誰も望まないでしょ??ただでさえ、文化的にまだまだな日本なんだし。
うーん、やっぱりまとまりが悪いな。続きはまた機会があれば。