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小泉純一郎と麻生太郎

第三次小泉内閣がスタートして二日が過ぎた。ブログ界隈では早くも秀逸な分析がたくさん出てきている。
圏外からのひとこと:小泉遺言スクリプト内閣
Bewaad Institute@Kasumigaseki 第三次小泉改造内閣発足
Bewaad Institute@Kasumigaseki 続・第三次小泉改造内閣発足
かみぽこぽこ 小泉内閣改造を読む(1):麻生外相の重要な意味。
かみぽこぽこ 小泉内閣改造を読む(2):安倍官房長官の試練と竹中総務相の飛躍。
かみぽこぽこ 小泉内閣改造を読む(3):政敵は閣内に、忠臣は党に。
かみぽこぽこ 小泉内閣改造を読む(4)そして、森喜朗と古賀誠。
どの記事も素晴らしいので後でじっくり読んでいただければと思う。
政治や経済に詳しい論客はネット上にヤマほどいるので、そういう視点で語ってもほとんど私の出る幕はないだろう。なので、このエントリーでは「人間」という視点から語ろう。個人的に最も興味があるのもその部分だ。
そして、「小泉純一郎」と「麻生太郎」は、今の政治家で一番興味を持っている「人物」である。今回の組閣と絡めて、この2人について少し語ってみたい。
小泉のポリシーを一言で表すなら、「人物指向」だと思う。首相就任当初打ち出した、「一内閣一閣僚」という方針にもそのポリシーは如実に現れている。
「まる投げ」と時に批判されたその政治手法も、見方を変えれば政策そのものよりも、「人」への信頼を重視したが故のスタイルと言える。
「人それぞれ考えがありますからねぇ…よく話し合って、適切な結論を出していただきたいと思います」
というフレーズは小泉が番記者とのインタビューで頻繁に用いるものだ。自身の悲願であった郵政民営化を度外視すれば、このようなスタンスで小泉は終始一貫している。
そういう意味で、「組閣」というのは小泉純一郎にとって極めて重要なイベントである。
というか、最大の楽しみでもあったろう。組閣人事に思いを馳せるのは、小泉にとって至福の時間だったに違いない。自分自身の「人間を見抜く能力」を証明できる絶好の機会。まるで「三国志」や「信長の野望」といったシミュレーションゲームで武将の配置に悩むように、プレーヤー小泉はその状況を楽しんでいたに違いない。こんな楽しみを他人に邪魔されたくはないだろう。そう考えれば「独断専行」型人事も当然だ。
「三国志」や「信長の野望」では、各地に配置した武将達は次のタームから独自に働き出す。プレイヤーがいちいちコマンドを与えなくても、配置された武将の能力や性格を基に、コンピューターが自動的に各地を治めていく。essa氏の「スクリプト内閣」という表現を見たとき、そんなシミュレーションゲームの光景を思い出した。そういう感覚は、以前からあったような気がする。第一次内閣の時からすでに「スクリプト内閣」という性格はあったのだと思う。
「人間を見抜く力」は、歴史小説でもしばしば美談になる。織田信長が秀吉を見出したエピソードなどはその典型だろう。歴史小説をこよなく愛する小泉にとって「人間を見抜く力」は自身の美学にも重なるはずだ。逆に、誤った人材登用をしてしまえば、それすなわち「敗者」であると歴史小説では相場が決まっている。
そこまで考えた時に、小泉には耐え難い汚点があった事に気づく。
田中真紀子の外相登用・更迭である。
bewaad氏は、先に紹介した記事の中で、

#外交問題を重視しているなら、田中真紀子外務大臣なんて人事があり得るはずもなく。

と述べているが、外交問題を軽視していたのではなく、小泉は本当に田中真紀子を「見誤っていた」のではないかと思っている。
小泉は、「一内閣一閣僚」の方針反故+自らの支持率20%以上ダウンという大きな犠牲とひきかえに田中真紀子を更迭した。当時、まだ世論は田中真紀子に同情的だった。内閣支持率の低下がその証左だ。本当に外交問題を軽視していたなら、もっと田中外相へのバッシングが強まるまでタイミングを伺ってもよかっただろう。
しかし小泉はそうしなかった。
外交を重視していたからこそ、早急に「敗北」を認めざるを得なかったのだと思う。
小泉の目を曇らせたのはやはり「血統」だろう。その血統にありもしない「ロマン」を見出してしまったのだろう。責任ある地位に立てば、隠れた能力が引き出されると勝手に想像してしまったのだろう。
とにかく、小泉は見誤った。言い訳のしようも無い。自らの読み違えのせいで「一内閣一閣僚」の方針を守れなかったのだ。
小泉自身、この件を「4年半にわたる政権運営の中での最大の失敗」と考えているのではないか。
そこで「麻生太郎外務大臣」の登場である。
これは小泉純一郎入魂の決断と見た。
ポスト小泉レースという文脈も当然あろうが、それ以上にこれは小泉自身の「リベンジ」なのだ。小泉はもう一度「賭け」に出たかったのだ。もう一度「吉田茂」という血統の「ロマン」に賭けたのだ。
実は私自身、麻生太郎の「大化け」に密かに期待する一人である。
麻生太郎は、ご存知の方も多いと思うが「吉田茂」を祖父にもつ
まあ孫と言ってもいろいろあるだろう。名馬の子がまた名馬とは限らない。しかし、麻生太郎の母親が三女の和子というのがポイントだ。
三女の和子は聡明で性格も茂そっくりだった。吉田茂の最大の理解者であり、良き話し相手でもあった。吉田茂の駐イギリス大使時代は、大使館の会計を全て和子が取り仕切っていた。首相時代も永く秘書として吉田茂を支えた。後年、吉田茂が「尊敬する人は」と問われ「娘、和子」と言わしめた程の女性。それが麻生太郎の母親である。
麻生太郎の外相就任会見におけるユーモア溢れるやりとりが早くも話題となっている様だ。一方で、過去の様々な失言を理由にその資質を疑問視する人もいる。
思えば、吉田茂こそ「ユーモアと失言」の宝庫である。
心筋梗塞で倒れ、見舞いに駆けつけた武見太郎に向かって「臨終に間に合いましたね」と言い放つ文字通り命を張ったギャグセンスは尋常ではない。
また、国会答弁にて西村栄一(民主党西村真悟の父)の挑発にのって「バカヤロー」と口走ったのがマイクにのってしまい、衆議院解散にまで発展した「バカヤロー解散」はあまりにも有名だ。
吉田茂-Wikipedia
には他にもユーモアと暴言・放言に関する数々のエピソードが紹介されている。
こうしてみると、麻生太郎は少なくともユーモアと放言癖に関しては確実に「血」を受け継いでいる様であるw。
では肝心の「政治家としての資質」はどうか。果たして彼は「平成の吉田茂」になれるのか。
正直、この点についてはまだ「未知数」である。政治家としての麻生太郎はまだ底を見せていない。放言癖は麻生太郎の資質を否定する理由にはならない。それこそ、「吉田茂」という前例があるのだから。
郵政民営化という大仕事の中で、「総務大臣」という重責を無難にこなしたのは評価に値する。少なくとも田中真紀子クラスの無能ではない事は既に証明されたと言って良い。
外交官出身の吉田茂は、まさに「外交の人」であった。外交にこそ吉田茂の真価があった。
その直系である「麻生太郎」が、遂に日本外交のTOPになったのだ。聞くところによると、本人も外相を希望していたと言うではないか。
ああ、「吉田茂の再来」という妄想が頭から離れない。とりあえず「ユーモアと放言癖」は完璧に受け継いでいるという点が妄想に拍車をかけるw。
もし麻生がホンモノならば、「対中強硬路線」などという薄っぺらい括りでは語れない味のある外交をしてくれるはずだ。
祖父の吉田茂は、対華21ヶ条の要求にただ一人反対して左遷の憂き目に遭い、その一方では「親米」のレッテルを貼られ、軍部から外相就任のダメ出しを喰らうような外交官だった。そんな男が今こそ必要なのだ。
これは血統の「ロマン」である。「夢」である。ディープインパクトである。
小泉は今回の組閣について、「適材適所」という言葉を繰り返した。なんとなくではあるが、小泉は私と同じ「ロマン」を麻生太郎に見ているのではないか。
考えてみれば、郵政民営化が正念場を迎える第2次内閣において、麻生を総務省のTOPに据えたのだ。そして今度は外相である。第1次内閣では政調会長だった。
実は小泉人事で最も厚遇されているのは麻生かもしれない。小泉の麻生に対する「人物評価」は恐ろしく高いはずだ。ポスト小泉という意味では、私もかみぽこ氏と同様麻生太郎が一番手と見る。
いずれにしても、麻生太郎が外相としての真価を発揮した時、小泉人事の真の「サプライズ」が始まる。