「弁護士」についてのちょっとした考察



何の気なしにNHKのドラマ「あなたは人を裁けますか」ってのを見ました。なかなか面白かった。昔からNHKの裁判ものドラマが好きなんですね(若山富三郎の『事件』シリーズとか)。
で、見てていろいろ気がついた事があったので、小倉氏のBlog騒動に関してちょっと別の視点から考察してみたいと思います。
普通の人達が、どんな場面で何の為に「議論」するかというと、ほとんどの場合『見解の差異を少しでも縮める』とか『妥協点を見出す』とか『相手を説得する』という目的の為である場合が多いですよね。いずれにしても何らかの「合意」を得る事がゴールだったりするわけです。店員との値段交渉だったり、ビジネス上の交渉事だったり何かを作る時の仕様決定だったり。
ところが、ドラマ見ててあらためてナルホドと思ったんですが、「裁判」というフィールドでは必ずしも「見解の差異を縮め」たり、「妥協点を見出し」たり、「相手を説得する」って事はそれほど重要ではないんですな。
例えばどんなに検察側が正論を言ってても弁護士が「検察側の言う事も一理ありますね」
なんて絶対に言わない、つーか言っちゃいけないだろうし。民事裁判にしても話し合いで決着が着かないから裁判になるんであって、相対的に「議論」という行為の価値が低い場所なわけです。
そう考えると小倉氏のとった一連の対応も傾向として理解はできる(納得はできないが)。
あと、裁判ってのは基本的に「数の論理」なんすよね。陪審員制度にしても、全員が合意に至らなくても「数の論理」で結論が決するわけで。結局、原告と被告が言いたい事言って、あとはシステマティックな数の論理に則って粛々と勝負が決する日常を送る「弁護士」さんにとっては、我々普通の人が期待する、「歩み寄り」「合意」の手段としての「議論」はあまり意味をなさないのかなー、なんて事を感じました。
「数の論理」で考えると、実は「コメントスクラム」を受けた時点で小倉氏は「負けて」いたのかもしれませんね。あれは勝利宣言ではなくて「リベンジ宣言」だったのかも。
ただ、それを抜きにしても小倉氏の場合は「最初の立ち位置」が既に違う気もしますが。。。
少しは歩み寄らないと。。。。。
あと余談ですが、世論調査によると64%が「人を裁く立場にはなりたくない」んだそうで、番組では”裁判員制度はまだまだ国民の理解は得られてません”みたいなコメントをしてましたが、はたしてそうでしょうか?もっと多くてもいいくらいだと思いますが。少なくとも私は被告になるとしたら裁判員には「気が進まない」人にぜひお願いしたいです。
つーか、「人を裁く立場になりたい」なんて思ってる人は、民衆法廷とか開いちゃう人達なんじゃないっすかねw?

「「弁護士」についてのちょっとした考察」への7件のフィードバック

  1. 小倉騒動:電脳遊星Dさんのまとめ

    電脳遊星Dさんが小倉騒動をまとめられたので。
    これを読むとムラムラと私も回想を書きたくなってきた。
    小倉先生ヲチまとめ
    あとから見れば、切込隊長が小倉弁護士…

  2.  初めまして。若隠居氏が運営されているブログ「若隠居の徒然日記」からこちらに伺いました。
     「『裁判』というフィールドにおいて『合意』がそれほど重要ではない」とのご見解についてですが、私は異なる見解を抱いております。
     まず、地方裁判所に係属する民事事件のうち約3分の1が和解によって処理されているということも考慮していただきたいということです。「3分の2は合意に至らず判決を求めているではないか」とのご指摘もあろうかとは思いますが、大抵の紛争が裁判以外の合意形成手段を試み失敗してから裁判に到っていることも考え合わせれば、代理人たる弁護士が直ちに判決を求め和解の道を探ろうとしないわけではないことも、お知りおきいただきたく思っております。
     また、ご覧になったドラマにおいて、弁護人役は検察官と主張を異にしていたわけではなく、むしろ事実認定の部分では検察側主張に同意し、量刑の部分で情状を考慮するよう主張していました。これをもって検察との対立姿勢ということは困難であり、むしろ「どのあたりの罰が妥当か」といった“折り合いをつけようとする”姿勢であったように思われます。
     最後に、基本的に「数の論理」であるのはむしろ立法府であると言われ、司法府は「形式的論理」の実現を目指すものとされています。裁判は全て合議体で赤なわれるのではなく、裁判官単独で行われる事件が多数あり、その正統性は証拠に基づき論理的整合性を保った判断を下すことにあること、裁判所の判断に不服があるときは上級審に再度判断を仰ぐことができることなどから、「数」よりも「論理」に重きを置く制度設計がなされていると言ってよいかと思われます。また、司法府の論理が「数の論理」を代表するものであれば、多数を代表する国会の立法に対し憲法違反であると判決することはできません(むろん「結局は最高裁判事の多数決」ではありますが、一応「数の論理」に全てを委ねているわけではない、ということです)。
     以上、コメントとして不適当なほど長文になってしまいましたが、ご笑覧いただければ幸いです。
     なお、一連の騒動での小倉氏の「ズレっぷり」については、私も全く同意いたしております。あれはオカシイです。

  3. an_accusedさん>
    はじめまして。鋭い問題提起ありがとうございます。
    >地方裁判所に係属する民事事件のうち約3分の1が和解によって処理されている
    民事裁判の「和解」についてはこのエントリーを起こす時点で脳裏にあったので、より真意が伝わるよう「話し合いで決着が着かないから裁判になるんであって」という一文を入れました。
    民事和解でなされる「合意」というのは、多くの場合裁判の経過による判決の見通し、「このままでは有利な判決は難しい」とか「このまま続けても裁判費用がかさむだけだ」などの判断を根拠に、あくまで「係争者間」の妥協を引き出すものであって、それについての弁護士の関与の仕方はかなり「システマティック」なプロセスなんではないでしょうかね?少なくとも、一般人の「議論」の感覚とはかけ離れたものなんじゃないかと思うんです。
    >弁護人役は検察官と主張を異にしていたわけではなく、むしろ事実認定の部分では検察側主張に同意し、量刑の部分で情状を考慮するよう主張していました。
    仰るとおりですね。ただ一方、自分がドラマを見てなるほどと思ったのは、裁判そのものが「同意」や「妥協」を一切「期待していない」「それを目的としていない」点です。結果的に同意部分があっても、基本的に相手側がどう判断するかについて「関知しない」のが面白いなあと思ったわけです。最終決断は第三者である裁判官、裁判員が下すもので、原告も被告も自らの主張を「言いっぱなし」で良いわけですよね。
    >基本的に「数の論理」であるのはむしろ立法府であると言われ、
    確かにその通りですね。なるほど。
    でも、「議論」のあり方については、むしろ「立法」におけるプロセスの方が我々の感覚に近いと思いません?実際には様々な妥協が議論を通じて行われてる気がします。ちょっと書き方が拙かったのかな。うまく説明できないですが。。。。
    いずれにしても、普通一般の議論においては、一定の歩み寄りを認めるレトリック、例えば
    「おっしゃる事は良くわかります」とか、
    「私の言い方も悪かったかもしれません」とか、
    そういった言葉が、議論を円滑に進める智恵だったりしますが、弁護士さんにとってはむしろそれは「禁句」なのかもなあ、というのが言いたかった事なんです。
    >以上、コメントとして不適当なほど長文になってしまいましたが、ご笑覧いただければ幸いです。
    いえいえ、大歓迎ですのでw。
    これからもよろしくお願いいたします。

  4.  丁寧なご回答をいただき、ありがとうございます。
     ご回答を拝見して、なるほどなあと思いました。
     弁護士は、自分が“説得する相手”として捉えているのは裁判官であって、相手方を説得できなくてもかまわないと思っている。だから、相手方や外部のオーディエンスから見たときに、その主張が「言いっぱなし」であるように見える(そして実際にそうである)。当然、判決よりも和解のほうが履行可能性が高いために、一旦は相手方と互譲して和解を目指すが、「ダメなら判決をもらえばいいや」とばかりに相手方との交渉のチャンネルをさっさと閉じてしまう。
     そういう理解でよろしいでしょうか。
     裁定者(=裁判官)からの同意を取り付けることを目的とする弁護士の行う議論と、賛同者の多寡で決着する立法府で行われる議論は、その性質を異にするものであります。しかし裁判体内部(裁判員や陪審員の合議)で行われる議論は立法府で行われるそれと原理的に異なるものではないように思われます。ただし、立法府でなされる議論が“利益の最大化”を目指すものであることから妥協の余地が大きいのに対し、裁判体でなされる議論が“真実の発見”や“法秩序の安定”を目指すものであるがゆえに妥協の余地が小さいのかも知れません。
     こちらのエントリーを拝見するまで、「弁護士=議論の専門家」というイメージを無批判に受け入れてしまっておりました。「法技術の専門家」ではあっても、「議論の専門家」と言えるかどうかは、たしかに疑問があるようです。考えるチャンスをいただき、ありがとうございます。

  5. >どんなに検察側が正論を言ってても弁護士が「検察側の言う事も一理ありますね」
    >なんて絶対に言わない、つーか言っちゃいけないだろうし。
    これには多少の異論がありますね。例えば欧米の政治議論では「論議は水際まで」
    と言う暗黙の了承がありますし、敗色が明らかなときは巧いこと逃げるのも
    本来、弁護士に要求される「能力」でありましょう。
    法曹界の人間と言えども「頑迷」は決して許されない事ですので(^◇^;)

  6. an_accusedさん>
    >そういう理解でよろしいでしょうか。
    完璧じゃないでしょうか。とゆーか、私の文章よりまとまってますorz
    こちらこそいろいろまた考えさせられました。
    またよろしくお願いします。
    abusanさん>
    はじめまして。
    >敗色が明らかなときは巧いこと逃げるのも
    本来、弁護士に要求される「能力」でありましょう。
    それはその通りだと思います。
    ただ、内心負けを認めても「わざわざ自分から敗北を仄めかす」必要は無いわけで、頑迷であれという意味では
    ありませんでした。
    >法曹界の人間と言えども「頑迷」は決して許されない事ですので(^◇^;)
    いやまったくです。問われてるのは弁護士としての能力じゃなく、一般人としての社会性なわけで。

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