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誰かに何かを伝えるための「リテラシー」(水伝騒動の私的総括)

まず、当ブログにおける前記2つのエントリーにおいて、『「水からの伝言」を信じないで下さい』の著者である田崎晴明先生、並びにその関係者各位の皆様に対して不快感を与える表現があった事を心よりお詫び申し上げます。
当該エントリーを書いた動機は他のところにありましたが、結果として議論に不要な多くの感情的反発を招いてしまった事はひとえに書き手である私に責任があります。申し訳ありませんでした。
尚、この総括エントリーを書くに至った経緯については、前エントリーのコメント欄におけるやりとり があります。もしご興味のある方はそちらをご覧下さい。
また、田崎先生へのご提案として当ブログで使用しているWEBサーバをミラーサイトスペースとして提供する案を考えていましたが、Google検索の問題については既に復旧した様ですね。なので、現状では必要無い状況になってしまいましたが、将来的にまた状況が変わった場合にはいつでも対応する用意がありますので、その時はいつでもお声をかけてください。
この総括をどういう視点で纏めるかについては、おおいに悩みました。書きたい事が多すぎたからです。ただ、単なる謝罪記事にも弁解記事にもしたくなかったので、今一度私の問題意識をアプローチを変えて「リテラシー」という視点に絞って述べてみようと思います。
そもそも、リテラシーとは何でしょうか。gooの英和辞書によると以下の様に説明されています。

literacy: 読み書きの能力; 教養

まさに私が問題にしたかったのは純粋な「リテラシー」であり、言い換えれば、
「読み手に真意をいかに端的・的確に伝えるか=書き手のリテラシー」
「印象操作や、まやかしのレトリックを排除していかに真実を読み取るか=読み手のリテラシー」
についての考察です。故に「科学」の問題ではないのです。
ここで話を「水からの伝言」に戻しましょう。
このエントリーを書くにあたり、水伝に関する過去の議論をいくつか読ませていただきました。それらを読む限りでは、水伝が問題視されている最も大きな要因は、この話が「学校の授業」で取り上げられている点にある様です。
私も同感で、水伝が学校教育の現場で用いられるのは問題があると思います。
水伝を教育の現場で使わないようにしてもらうには、教育関係者にその真意を「伝える」必要があります。教育関係者が皆納得するような「根拠」を提示すれば、大きな効果を挙げる事になります。
それでは何故、水伝が教育現場で取り上げられるのが問題なのでしょうか。
その理由について、田崎先生は「水からの伝言を信じないでください」 の中で、以下の様に書いています。

つまり、ちょっと過激な言い方をすれば、「水からの伝言」を使って道徳の授業をしようと思ったら、
どうしても、生徒たちに「ウソ」を教えなくては、ならないのです。道徳の授業で、
先生が「ウソ」を教えるのは、とても、とても困ったことです。

また、大阪大学の菊池先生は 「水からの伝言」を教育現場に持ち込んではならないと考えるわけ というテキストの中で、

1. 明白にニセ科学であること

という理由をメインに挙げ、それ以外にも9つの理由を挙げています。
それら全て理由として理解はできるのですが、なんというか「一番重要な点」が抜けているような気がするのです。少なくとも私が理由として考えているものは、挙がっていませんでした。
そもそも「ウソ」を教える事が本当に「とても困ったこと」なのでしょうか?
初等教育の現場においては、敢えて「ウソ」を教える事がしばしばあるのではないでしょうか?
例えば、「赤ちゃんはコウノトリが運んでくる」という伝説があります。
これは古くから初等教育における方便として使われてきました。
こんな方便が現在も使われてるかどうか定かではありませんが、子供にそう説明した教師がいたとして問題視されるでしょうか?
少なくとも「パパのおちんちんがママの…」などと教えた方が問題になりそうです。
他にも「サンタクロースはいるか」とか。子供に「ウソ」を教えたり、「事実」を言わない場面って意外にあると思うのです。
それらの例に思い当たったとき、「ウソだから」という理由だけではイマイチ説得力が弱い。
私が水伝を教育に持ち込んではいけないと思う一番の理由は、この話が一民間企業の「営業ツール」だからです。
「この話はそもそも一民間企業が言いだした話で科学的には明確に否定されています。
その企業はこの話を拠り所にして書籍や高額な機器を販売して利益を上げています。
そのような話を公的な教育機関が子供達に教えて蔓延させ、結果的に一民間企業の営業に加担してしまっているのは重大な問題です」
と説明した方が教育関係者にも問題点が直感的に「伝わる」のではないでしょうか。
次に、伝える相手を「一般大衆」に拡げた場合について。
反証実験が必要かどうかの議論はひとまず置いて、その前段の話について2点ほど気になった事を述べておきたいと思います。
私は一連のエントリーの中で、「翻意させる事を目的にしない」という事を繰り返し言いましたがその真意が伝わっていない気がするので補足します。
前述した菊池先生のブログでは、かなり以前から反証実験の是非が議論されていた様なのですが、その中で興味深い記事がありました。
もう一度、実験について というエントリーの中で、反証実験の目的を整理した部分です。以下抜粋。

(1)江本グループに見せて、「違うぞ」というため
(2)ビリーバーに「反証」として示すため
(3)半信半疑くらいの人に「実際には本のとおりにならないんだよ」というため
(4)「水伝」と関係なく、教育のため

私が想定していたターゲットは上記には含まれていません。
上記に付け加える形で書くならば
(5)まだ「水伝」を知らない人に先にカウンターを示すため
です。
理由は2つ。

  1. 社会全体を俯瞰すれば、まだ「水伝」の話を知らない人の方が遥かに多いと思われる事。
  2. まだ知らないうちであれば、「水伝」の話を信じそうな傾向の人でもすんなり受け入れる可能性が高い事

水伝の話を日本国民の半数以上が知っている状況でない限り、
信じている人+半信半疑の人+信じてない人<まだ知らない人
となるはずで、であれば最も多い層をメインターゲットに設定するのは利に適っています。
そして、まだ知らなければ「信じないでください」という提言を固く拒む理由は無くなります。信じやすい傾向の人は、基本的にメディアなどからの情報を「取捨選択する」意識が低い人(そしてそれがおそらく一番多数派)のはずで、だとすれば先に反証を刷り込んでしまうのが一番効果的と考えます。
もう1点だけ。
各所の記事や議論を読んでいて、「こんなのを信じちゃう人には科学の基本からちゃんと教え込まないと」的な発言を多く目にしました。学校教育に限定した話であれば有意義かとは思いますが、それを一般の人々に向けて行おうという話であればその考えは捨てた方が良いと思います。
なぜなら、教育というのは教える側と教わる側の目的が一致して初めて成り立つと思うからです。学ぶ気がない人間に無理やり何かを教え込もうというのは、一言で言えば傲慢であり反発を買うだけだと思います。
なんだか纏まりの無い文章になってしまいましたが、最後に。
田崎先生のテキストを読んで気になった点については、レポートの形に纏めて私信として後日お送りしようと思っています。先生は前エントリのコメント欄にて、

「一つのバランスを達成していると思っているので、大きな変更はしないと思います。」

とおっしゃっていましたが、「一つのバランスを達成している」というのは私も同感です。
ですから、修正等を求める意図は毛頭ありませんが、何かのご参考になればと思う次第です。
この話題をエントリで取り上げる事はおそらくもう無いと思います。まったく議論が噛み合わなかったのは少々心残りでしたが、お騒がせして申し訳ありませんでした。これも「書き手のリテラシー」の問題ですね。以後、自戒します。

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やればいいじゃん反証実験

※当エントリーには、『「水からの伝言」を信じないで下さい』の著者である田崎晴明先生、並びにその関係者各位の皆様に対して不快感を与える表現があります。その件につきましては こちらのエントリー にてご本人に謝罪しています。


こーゆー形で反響があるとは迂闊だった。みんな大好きなんですね水伝。
いままで無関心だったから想定してなかった。
しかしながら、ほとんどの批判に対して納得がいかないから改めて煽ってみる。
似非科学といわれるものの多くが「そもそも反証できない」というのは一般論としてはそーかもしれない。
しかし、田崎先生の文章を読む限り「水伝」に関しては十分反証が可能だと思ったのだが間違ってる?
田崎先生も「やる必要は無い」と言っているわけで。不可能な事であればこういう言い方はしないっすよね?
具体的に言うと、気相からの氷の結晶成長については結晶の形が飽和水蒸気圧と温度に依存するというナカヤダイヤグラムに則った形で実験環境を整え、その上で「言葉」というパラメータを追加する。

  1. 何も言葉を掛けない
  2. ありがとう、と毎日一定時間声をかける
  3. ばかやろう、と毎日一定時間声をかける

という3つのサンプル群を複数用意して、これを一週間程度続けた後ナカヤダイヤグラムの再現性に影響を与えるかを調べる。
これで、ナカヤダイヤグラムの再現性に影響が無いという結果が出ればOK。
私は物理学者でもないし専攻もしていないので、ナカヤダイヤグラムとか偉そうに言っても超付け刃の知識。だから間違ってる部分があればご指摘ください。
いずれにしろ重要なのはファクトを「社会」に発信すること。どこかのマスメディアとタイアップできれば理想。
田崎氏の文章の中で、少なくとも何らかの具体的「ファクト」がもっと盛り込まれていれば「粗雑」なんて批判はしなかった。
ちなみに水伝の提唱者、江本氏を翻意させるなんてハナから無理。これがメシの種なんだから絶対に翻意なんかしない。江本氏はあくまで「ビジネス」をしたいわけだから、科学のフィールドには極力乗らないように、科学者を刺激しないようにと考えているはず。そこはotsune氏の見解 に同意。
でも、だから反証実験は無意味とは思わなくて、全く逆の見解。
これは言うなれば「似非科学vs科学」の異種格闘技なわけで。科学者同士の揉め事とは別の戦略が必要だと思う。
科学者の仕事はファクトを積み上げる事であって、誰かを説得する事ではない。異種格闘技に有効なのは、「ひたすら科学者らしく振舞う事」。相手は科学者じゃないからこそそれを一番嫌がる。
ボクサーに対するキックボクサーのローキックの様に、効果的で嫌らしい。
信じている者を翻意させる、事を目的としてしまうからおかしなことになる。
江本氏からもし妙な反論があってもスルーでいいのです。
1度だけきちんと反証実験をして、あとはマスメディア等を極力活用してそのファクトを社会に浸透させる事に専念する。
せっかく反証実験が「可能」なんだからその戦略が一番有効だと思うんだけどなあ。
唯一わからないのは、そこまでしなきゃならんほど、実際「弊害」があるのかって話。
物理学者の先生があれだけの長文を書くくらいだから、よほど深刻なのかな?と推測したけど今まで注目してなかったからそこがよくわからない。
だから一応、「弊害がなければスルーすべし」と前エントリーでは留保しといたんだけど。
反証実験のコストに関しては結局そこに尽きると思っていて、そのコストをかける程の意味が無いのであればスルーでいいと思う。


[追記]
判りやすく言うと、「メディアを巻き込むためのプレゼンとしての反証実験」をすべきという事です。
otsune氏の言うとおり、これが「洗脳合戦」だとすれば、「著名な物理学者の実験結果です」という言葉が社会に対して持つ絶大な「洗脳力」をもっと自覚すべきという事。

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『「水からの伝言」を信じないでください』と言うのならやるべき事は一つだろう?

※当エントリーには、『「水からの伝言」を信じないで下さい』の著者である田崎晴明先生、並びにその関係者各位の皆様に対して不快感を与える表現があります。その件につきましては こちらのエントリー にてご本人に謝罪しています。


『「水からの伝言」を信じないでください』 という記事がはてなブックマークで人気になっていたので読んでみた。
元ネタもツッコミどころ満載なのはその通りだろう。しかしこの反論記事もけっこう粗雑な論理だと思うのだがぶくまコメントを読むと絶賛ばかりでちょっと萎えた。唯一、id:ipsychic氏のコメントにあった

今,現に信じている人にはまったく効果が無い駄文。

というのに同意。結局この記事は、「ハナから信じてない人」が溜飲を下げる程度の説得力しかない。
「水からの伝言」がインチキだと客観的に証明するには、反証実験しかあるまい。やるべき事はそれ一つだ。それが「科学的立場」というものだろう?なぜそれをしない?
著者の田崎氏はその疑問に対する答えをちゃんと先回りして用意してある。しかし何度読んでも意味が判らない。長文で恐縮なのだが、以下抜粋。

たしかに、科学の基本は実験です。今の科学は、これまでの数多くの実験や観察で得られた事実をもとにして作られています。
だからといって、すべての考えを、いつでも実験して確かめなくてはいけない、というわけではないのです。科学の知識がある程度まで増えてくると、新しく実験しないでも、何がおきるかが、ほぼ確実に、わかるようになります。過去の実験の結果についての知識と、総合的な理論をもとに考えることができるからです。たとえば、「あしたの朝、太陽はのぼらない」と言われても、これまで太陽がのぼってきたという観察事実と、なぜ太陽がのぼるのかという天体の運動についての知識を組み合わせれば、「いや、あしたも太陽はのぼる」と言いかえすことができます。
「水からの伝言」についても同じようなことが言えます。これまで、科学の長い歴史の中で、水を使ったさまざまな実験がおこなわれています。その結果、水のもっている性質が、言葉や人の心の影響を受けないことが、ほぼ確実に、わかっています。そのことは、水やさまざまな物質のふるまいについての物理学の理論から考えても、なっとくできることです。
上で書いたように、「水からの伝言」の「実験」はまったく信頼できないものですから、それが「本当でない」というために、新たに実験をする必要はないのです。
もし、「実験に対しては実験で反論するのが科学のルールじゃないのか?」と思われている方がいらっしゃれば、それは、まったくの考え違いです。上のような事をていねいに書いたのは、ほとんどの読者のみなさんが(そして、「水からの伝言」の実験をしている人たちが)科学者ではないからです。もし、これが科学者どうしであれば、話は単純です。これまでの考えとは違う新しい説が本当かどうかが問題になるときには、新説をだしている科学者の側に、説得力のある証拠をだす責任があります。仮に(私は、そうは思っていませんが)「水からの伝言」に「科学のルール」をあてはめていいとすれば、「ともかく、温度と過飽和度を一定に保ち、全サンプルについての統計を取ってください。話はそれからです」で終わりです。

この後、「もっと詳しい説明」というリンクがあるのだが、さらに長文なので割愛。
というか、全体的に文章長すぎ。これ全部読む人って最初から共感しまくってる人だけじゃないか?
で、信じたい人から見れば「なんかこの学者さん必死杉」と見えるだけで長文は逆効果でしかない。
結局言い訳をつらつら並べているだけで「反証実験が出来ない」理由など一つも挙げていない。
やればいいじゃん反証実験。
その結果を示すだけで、ごたくを並べなくとも完膚なきまでに否定できるじゃん。
元ネタと同じだけの労力を使う必要はない。田崎氏は物理学者だけあって、元ネタの実験条件に問題がある事をその前段で指摘しているわけだから、より管理された実験条件を整えればもっと効率よく結果が得られるわけだ。
”一週間これこれこういう環境化で「ありがとう」「ばかやろう」と浴びせ続けましたが、これだけのサンプルを取ってみても結晶構造に変化はありませんでした。”
それで「万事終了」じゃないか。
「そこまでする必要はないだろう?」と言うのなら、似非科学蔓延による弊害も「その程度」という事になる。
他にも、文章として粗雑な部分が散見される。
特に多いのが、「元ネタの実験は信頼性が低い」事しか証明していないうちから「間違っている」という結論を論拠に持ち出しているパターン。
例えば以下の部分。

本当にそうでしょうか? 教えたいことが正しいとしても、本当ではない「実験事実」を本当だといって(つまり、ウソをついて)教えてしまっていいのでしょうか? 実は、このような「実験事実」は本当ではなかったと、あとになって生徒たちが知ったとき、その授業についてどう考えるでしょう?

”本当ではない「実験事実」”、”つまりウソをついて” とさりげなく断言しちゃってる。
その前段ではそこまで証明しきれてないのに。

そういう、ばらつきの大きい結果がでてくると、実験している人のちょっとした思いこみと一致するような結果だけが選ばれて、まるで意味のある結果がでてきたように見えてしまうことが多いのです。

一般論としてはよく理解できるけど、これも根拠の無い憶測でしかない。「水からの伝言」で恣意的な選択が行われた事を客観的に証明するには前に戻るが反証実験以外にない。
きりがないのでこのへんで止めておくけど、結局「結論先にありき」という意味ではこの反論記事も元ネタと同じ。
要するにこのエントリーで何が言いたいかというと、いちゃもんをつけるのが目的ではなくて、リテラシーだなんだと言っても結局人は「信じたい記事」に対してガードが甘くなるんだなーという事。
「だまされないぞ」という想いが強い人は「○○に騙されるな」という類の記事に対してガードが甘くなる。
それって別に悪い事ではない。むしろその方が人間らしい。
でもそういう傾向を誰でも持っているという事をちょっとは自覚しておいた方がいいと思った次第。


[追記]
コメント欄やぶくまコメントにちょっと返答します。
そもそも、科学者がなぜ「似非科学」を批判するかというと、「科学の体裁をとって」間違った知識を蔓延させるから、でしょう?
単なる宗教的思想であれば、それは少なくとも「科学者」が問題にすることではない。
だから、科学者がやるべき事は、似非科学の「科学的に間違った部分」を客観的に証明することであって、「非科学的な事を信じる全ての人々を翻意させること」ではないのです。ここ重要。
似非科学は科学の体裁を装っているだけで「科学ではない」のだから、それが社会的にさほど害が無いのであればスルーすればよいだけだし、社会的な弊害が見過せないレベルのものであればその時はキッチリと叩くべき。それだけの話。
で、いざ「キッチリ叩く」となった時に、「新規なことを主張する側が立証責任を負う。」などと「科学者の論理」を持ち出すのはナンセンスこの上ない。相手はそもそも科学者ではないのだし、それよりも「科学者側から反証実験はしない」と言われて一番喜ぶのは似非科学を提唱する側だから
原理原則を理由にして敵を喜ばせてどうする。つくづく学者というのはケンカが下手だ。
「水からの伝言」の話で言えば、
「良い言葉、悪い言葉の定義」「結晶の美醜の判断」は問題ではない。
言葉の善悪に関しては「ありがとう」「ばか野郎」という具体例がでているのだから、それを使って実験すれば反証には十分。
結晶の美醜にしても、「言葉の波動は結晶に影響を与えない」事を証明できれば事足りるのだから、美醜はそもそも問題にはならないはず。
というか、科学者の皆さん是非反証実験をしてください!今まで無関心でしたが俄然興味が沸いてきましたw

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著作権

CBSがYouTubeを白く塗り始めている

前エントリーで、YouTubeとCBSとの提携内容が後に重要な意味を持つ可能性について書いた。無許諾アップロードを著作権者が事後承諾する可能性を残す画期的なものだと。
しかし、言い換えるとそれはあくまで提携内容から「期待できる」という話であって、その後CBSが実際にどう振舞うのかが重要であった。実際のところどうなのか。
結論から言うと、ここまでのところCBSは予想を超えて革新的で大胆に振舞っている様に見える。これまでの提携企業とは明らかに違う様だ。予想以上にYouTubeユーザのコミュニティを尊重し、好意的に接している。アメリカ三大ネットワークの一角を担うメジャー企業が、ここまで柔軟な姿勢を打ち出せる事が驚きだし、アメリカはやっぱりスゲー国だと改めて思わずにいられない。
個人的に最も興味深い出来事が10月末に起こった。
The Silent Patriotというアカウント名のユーザが,YouTubeにあるコンテンツをUPした。
CBSで放映されたマイケルJフォックスの独占インタビューの映像 だった。
これが多くのアクセスを集め、Most Viewedにランクインする。
そして(おそらく)その数時間後、CBSが同じ内容のインタビュー映像 をYouTubeにUPする。
私がこの2つの映像に気付いた10月27日深夜の段階で、CBSの映像がMostViewedの3位くらいに、The Silent Patriot氏がその前にUPした映像が確か6位くらいにそれぞれランクインしていた。
だから、YouTubeのコンテンツ識別アーキテクチャに頼るまでも無く、CBSがThe Silent Patriot氏のアップロード映像を認識していなかった事は有り得ない。
つまりCBSはThe Silent Patriot氏のアップロード映像を「事後承諾」したのだ。リンク先の映像が今でも見れるのがその証左である。
この様な事例をこんなに早く確認できるとは思わなかった。CBSは著作権侵害行為の取締りよりもそこから生まれるインセンティブの方を重視している事が証明されたと言って良い。なんとも太っ腹ではないか。
提携からまだ一ヶ月足らずだが、今日現在で既にCBSは209もの番組映像を自らYouTubeに配信し、Viewカウント上位20に2~4のコンテンツを輩出している状況がこのところ連日続いている。そして、それらのコンテンツが一般ユーザの映像とフラットに扱われているのも興味深い。CBSもYouTubeの一ユーザとして存在し、名前をクリックすると他のユーザと同様にプロフィールが見れる
“Age: 78″なんてそのセンスが憎い。
これらの状況から察するに、CBSはYouTubeの在り方を肯定し、そのユーザコミュニティを破壊しないように最大限の配慮をしている。彼らは本腰を入れてCGMとの共存を模索しているのではないか。
CBSのこの振る舞いは、YouTubeの「訴訟リスク」にも大きな援護射撃になるだろう。何故なら、「YouTubeは著作権侵害コンテンツを自発的に削除すべき」という主張が説得力を失うからだ。
Napsterの時はレコードレーベル各社が一枚岩となって叩いたからこそ大打撃を受けたが、コンテンツホルダーがバラバラのスタンスである限りそこから受ける打撃も限定される。訴訟リスクそのものはこれからも抱え続けるだろうが、最早YouTubeが著作権問題で存続が危ぶまれる程追い込まれる事は無いと確信する。
それにしても、「YouTube対策強化週間」とかいって3万ファイル削除して喜んでいる日本の状況とのギャップはどうだ。まあ、ハナから期待できないのは判っているから、アメリカとのギャップが広がるのは悪い事ではない。CBSのような新しい発想の芽が花を咲かせて外圧となってフィードバックすれば、日本の状況も面白くなるかもしれない。

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著作権

YouTubeがネット社会にもたらした2つの「戦果」

YouTubeがGoogleに16億5000万ドルで買収された。
ちらほらと噂が流れていたとは言え、このニュースに驚かなかった人はいないだろう。
初代Napster台頭から始まった、「著作権ビジネスにおける既得権勢力と新興勢力とのせめぎ合い」という視点で見た場合、今回の落とし所は間違いなくハッピーエンドであり、YouTubeは大きな2つの「戦果」をネット社会にもたらしたと思う。
1つ目の「戦果」は、YouTubeが16億5000万ドルという具体的な「存在価値」を歴史に刻んだ事だ。
初代Napsterの消滅以降、著作権ビジネスというフィールドでは「革命」は起こせないという諦めムードが支配していた。Napsterの件が無かったならば、iTMSだってもっとラジカルな戦略をとっていたかもしれない。Napsterの失敗の記憶は、多くの新興ビジネスを萎縮させ、より「安全な道」を選択させてきた。
しかし、YouTubeは世間の注目を浴びて以降約1年もの間、著作権ビジネスにおける「問題児」としてグレーゾーンに存在し続けたまま、とりあえずのサクセスストーリーを描き切った。
YouTubeが今後どうなろうとも、今日までYouTubeが取ってきた戦略とその結果としての16億5000万ドルという価値は客観的事実として歴史に残る。
今後、後発の起業家達はYouTubeの「サクセスストーリー」を先例として思い描く事ができる。1年前までは、Napsterの暗い末路しか思い出すことができなかった。この違いは大きい。YouTubeが初代Napsterの呪縛を解いたのだ。
そして2つ目の「戦果」は、買収劇ではなく同時に発表された「CBS,ユニバーサル,SonyBMGとの提携」にある。
買収のインパクトがあまりに大きすぎてさほど注目されていないが、この提携は買収と同じ位インパクトがあると思っている。
後に振り返った時、この提携が著作権における発想の転換点だったとあらためて評価されるのではないか。
特に注目するのは、CBSとの提携内容である。MYCOMの記事から以下抜粋。

同社(CBS 引用者注)はまた、YouTubeが新たに導入したコンテンツ識別アーキテクチャを試す最初の企業になる。同技術は著作権で保護されたコンテンツを識別し、YouTubeにおける利用をレポートする。著作権が侵害されている場合は、著作権保有者であるCBSが削除できる。ただしCBSが問題なしと判断すれば、そのまま公開が継続する可能性もあり、そのコンテンツに関連して広告収入などが発生した場合はCBSにも分配されるそうだ。

この提携内容が持つ大きな意味にお気づきだろうか。
判りやすく言うと、無許諾アップロード行為が著作権者によって事後承諾されるパターンがあるという事だ。
これはとんでもなく大きな一歩じゃないか。これまで著作権者は例外なく100%事前許諾を大前提としてきた。その常識を覆すものだ。無許諾=違法とは限らなくなるという事だ。
ちょうど3ヶ月前、事前許諾に固執するコンテンツホルダーを 無断リンク禁止に例えて揶揄するエントリーを書いた。このエントリーは随分と誤解もされたが、真意ははそういう事だった。
そして、他のエントリーでも「違法」という言葉は決して使わず一貫して「無許諾アップロード」「無許諾コピー」という表現を意図的に使ってきた。無許諾である事が即違法とは限らないじゃないかという強い思いがあったからで、だからこそ事後承諾の可能性を残す今回の提携に敏感に反応した次第。実際の運用上、CBSが90%の無許諾コンテンツを削除しても構わない。10%でも無許諾アップロードが合法となる既成事実が出来れば、それだけで十分「常識」は変わる。
今回の買収劇がたとえ無かったとしても、YouTubeがメジャービジネスを志向する以上いずれはどのみちコンテンツホルダーのコントロールを受け入れなければならない。問題は、それが「どのようなコントロールであるか」だ。
その意味で、YouTubeは今回のCBSとの提携において、さりげなく大きな風穴を開けた。とりあえずGoodJobと言いたい。ここから著作権ビジネスの展開が劇的に変わる、かも。

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『初恋の嵐』というバンドを知っていますか

YouTubeでJ-POPの音楽を適当に漁っていたら、思いがけず『初恋の嵐』のデビューシングル、『真夏の夜の事』のPVを発見してしまった。4年前の記憶が蘇った。また何度も繰り返し見てしまった。
もちろんご存知の方にとっては私の解説など不要だろう。しかし、まだこのバンドを知らない人が多いのではないかと思い、突発的にこのエントリーを書いている。
この曲が発売された当初、ヘビーローテでこの曲ばかり聴いていた。
ボーカル、ギター、ソングライティング担当の西山達郎を中心とするスリーピースバンド『初恋の嵐』は、2002年にメジャーデビューし、1枚のシングルと1枚のアルバムを残した。
2000年頃からインディーズでの活動で着実に人気を獲得していった彼らはユニバーサルと契約し、2001年からレコーディングに入った。
しかし、2002年3月、バンドの中心メンバー西山が急性心不全で急逝する。
レコーディングは頓挫。しかし、全国のファンから寄せられたリリースの要望を後押しに残るメンバー、スタッフが音源を引継ぎ、アルバムを完成させた。
曲だけ聴いても素晴らしい。PVだけ見ても秀逸。
しかし、その裏にあるエピソードを知り、さらにこの曲の歌詞が持つ世界観に気付いた時、感動が倍化する。
メンバーの急死、それを信じたくないファンの思い、日本人独特の哀愁漂うメロディ、想像と現実が交錯する歌詞の世界観、その世界観を見事に再現したPVの絶妙な演出。
幾多の要素が折り重なって、奇跡の名曲に仕上がっている。
J-POPには、ヒットチャートに現れない隠れた名曲がある。この深い味わいを堪能して欲しい。

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レッシグ氏に、YouTubeについて質問してみた

昨日、札幌市立大学が主催する産学連携公開講座というのに出席したのだがなんと講演者はあのローレンスレッシグ教授だった。講演のあと質疑応答の時間があったので、レッシグ氏にYouTubeについての見解を訊いてみた。
レッシグ氏がYouTubeをどう見ているのか、以前からメッチャ興味があったのだがまさか自分が直接質問する機会に恵まれるとは夢にも思わなかった。巡り会わせというのは不思議なものだ。
以下は、私の質問とそれに対するレッシグ氏の返答。私の英語力ではあまりに心許ないので、当日の伊藤穰一氏の同時通訳をベースに一部筆者の意訳を交えながらテキストに興してみる。
(録音ソースがあるのでpodcastしたいところだが今のところは保留。主催者側を通して許諾願いは出してみる。)


-J2
(簡単な自己紹介の後)
今、日本でもYouTubeという動画サイトが大変な人気なんですけれども、レッシグ先生から見てYouTubeっていうのはどういう存在なのか、ぜひお聞きしたいと思います。
-Lessig
複雑な気持ちのMIXだ。
一つはYouTubeによって、クリエイターがコンテンツをより簡単に配信するという事を行えるのは良い事だ。
しかしながら、彼らはビジネスモデルの中でかなり法律ギリギリのところでビジネスを行っていて著作権違反のものがたくさん載っている事を理解した上で彼らはビジネスを進めている。
その結果、おそらくは国に対して、もっとYouTubeみたいな使い方をlimitする方向に法律を変えようというプレッシャーが掛かってくるのではないか。
今までのところYouTubeというのは訴えられるとか裁判というのはまだそれほど起きていない。
どちらかというとコンテンツ企業側はYouTubeと契約をして、自分達のコンテンツが配信されればそれによって自分達の売上にもそれが反映されるという方向で模索しているようだ。
例えばワーナーミュージックがYouTubeと契約をして、限られたエリアの中でワーナーミュージックの一部コンテンツがReMIXされたものはYouTubeに載せる事が出来る。
ワーナーによるコントロールが効くエリアの中で行われているという意味では、我々が求めているオープンなシェアリングではなく、結果的には契約に基いたコントロールがまた強まっていくのではないか。
YouTubeは、(コンテンツ)シェアリングの一つのあり方を社会に提示している訳だが、これを社会全体が見て、自分達が求める未来かどうかという検討をして、いろいろな企業が集まってやはりこういうスタイルは都合が悪いとなった時に、結局法律が変えられてYouTubeの様なビジネスがlimitされてしまう事が一番心配だ。


テキストを読んだだけでは伝わらない部分を少し補足すると、講演時や他の質問に対する答えに比べてこの時のレッシグ氏は歯切れが悪かった。注意深く言葉を選びながら話をしていた感じ。
YouTubeの有り方をどう位置付ければ良いのか、レッシグ氏も判断しかねている印象を持った。
返答の冒頭で即座に”mix”という単語が発せられたのが印象深い。
おそらくYouTubeが余計な刺激を与えてしまうと、結果的にレッシグ氏の活動にも支障が出かねないという心配が大きいのだろう。それも理解できる。
レッシグ氏の困惑は即ちビジネスマンと学者の発想の違いなのかもしれない。
ここまでのところかなりうまく立ち回っているとはいえ、依然としてYouTubeはリスキーな場所にいるんだなぁという事を再認識させられた。まだまだ予断を許さない。
しかし先の見えない勝負ほど見ている方は面白い。
このハラハラ感がそのままYouTubeの今の勢いに繋がっているのではないか。

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はてぶでは、100日かけて100usersに到達する様な「ロングヒット型」エントリーが埋没してしまう

最近衆愚化云々が話題になってる「はてなブックマーク」の話なんだけど。
1日の間に100users稼げば、おそらく「人気エントリー」になる。
でも、例えば1日1usersずつ、100日かけて100usersに到達する様なエントリーは、今のはてぶだと殆ど見つけるのは困難だ。
しかしながらどっちかとゆーと、後者の方に価値を感じるのは私だけだろうか。
今のはてぶは、基本的に注目の度合いを「単位時間」で測る
いまや人気エントリーとかに載るには、なんらかの「追い風」が不可欠。
瞬間最大風速が大きい記事ってのは、予め大勢がRSSリーダーに登録してるとか、もしくは人気ブックマーカーにブクマされたとか、人気ブロガーに言及されたとか、すごく前提条件が限られない?
強者が圧倒的有利というか。
これだと、ピックアップされるエントリーがどんどんパターン化しちゃって当然だよね?
読者は少ないけどすごい良記事を書くブログとか、そういう新しい「発見」ってむしろ風速の小さいところにあるんじゃないかと思う。
「人気エントリー」にも「注目のエントリー」にも上がらないまま、アルファブックマーカーの力でもなく、少しずつuser数を増やすエントリー。それって凄くない?
日付の起点が「1get時」固定なのが問題なのかな。利用者の好みに応じて起点の日時が切り替えられたら面白いかも。注目のエントリーとかを「3get」時を起点にソートできたりとか。
まあ実装はいろいろ考えられるけど、とにかくコツコツとuser数を増やすような「ロングヒット型エントリー」を汲み上げる仕組みが欲しい今日この頃です。

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YouTubeで見るPRIDE・K-1名勝負Best5

YouTube独断Best5シリーズ第2弾。
最初はPRIDEだけでBest5選ぼうと思ってたけど、ドリームステージがガンガン削除依頼だしてる事もあってPRIDE系はちょっと品揃えがイマイチ。急遽、K-1込みに。格闘技ファンならずとも必見の映像集です。


5位– PRIDE8 イゴール・ボブチャンチン vs フランシスコ・ブエノ
初期PRIDEの伝説のKO劇。PRIDEの凄さを象徴する試合としてトレイラー映像等でも一時期使われまくった。特にこの映像のラスト、ブエノの表情を正面から捉えたスローモーション映像を見ればその破壊力が判る。

4位– Dynamite(2002) アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ vs ボブ・サップ
ボブサップをただのデクの棒だと思ってる人は必見。
当時、世界最強のヘビー級格闘家として最盛期を迎えていたノゲイラに、まだ無名だったボブサップが挑んだ試合。サップは単に「大きい」だけのイロモノ的位置づけでノゲイラの圧勝と思われたが、常識外れた身体能力とモチベーションの高さでノゲイラをあと一歩のところまで追い詰めた。これはボブサップのベストバウトだろう。
セコンドにはジョシュバーネットが付き、練習量豊富でよく体が動いていたし、ハングリー精神に満ちていて闘いへの気力も充実していた。
ノゲイラ戦でコアな格闘技ファンの注目を浴びたサップは、この直後K-1に乗り込んで稚拙な打撃技術にも関わらずパワーだけでアーネストホーストをKO。格闘技の常識を次々とぶち壊し、一躍スターダムにのし上がった。今では酷い体たらくだが、この年のサップは本当に強かった。

3位– K-1(1997) フランシスコ・フィリオ vs アンディ・フグ
当時、極真空手最強の呼び声が高かったフィリオがK-1に初参戦した試合。
片やアンディ・フグは前年K-1グランプリを初制覇して最も好調だった時期。極真時代のフグとフィリオの因縁もありこの試合はおおいに注目を浴びた。試合はまったく腰の入っていないパンチ一撃でフィリオがフグを衝撃KO。
スローモーションで見るとホントに腕だけのパンチなのに喰らったフグの頭蓋骨の揺れが凄い。
フィリオはこの年勢いにのってK-1グランプリ本大会にも参戦。1回戦のサムグレコ戦もワンパンチKO。フィリオの余りの強さに、K-1ファンはマンガの世界を目の当たりにしたかの様なロマンに酔いしれた。準決勝でアーネストホーストに判定で敗れたが、当たれば一撃で決まってしまうという緊迫感が試合を最高に面白いものにした。2000年には、今度はジェロムレバンナがこのフィリオを一撃で壮絶KOし、「千年に一度のKO劇」と語り継がれる事となる(映像があればバンナvsフィリオを3位にしたかった)。
フィリオが全盛期だった頃は、K-1が最もエキサイティングな時代だったと思う。

2位– K-1パリ大会(2002) ジェロム・レバンナ vs マーク・ハント
前年のK-1グランプリで優勝候補筆頭だったバンナは、一回戦でハントに破れ、結局ハントがグランプリの覇者となった。この試合は、バンナにとっては地元パリに凱旋してのリベンジマッチであり、絶対に負けられない試合だった。
特に2ラウンドはK-1史上に残る壮絶な打ち合い。個人的には、これがK-1最後の名勝負と思う。
昨今のK-1にはこの当時の輝きはもはや無い。

1位– PRIDE21 ドン・フライ vs 高山善廣
文句無しで、日本格闘技史上のベストバウトと思う。ホンモノのド突き合いとはこういう事だ。何度見ても感動する。マジ凄すぎ。
一流は一流を知る、とでも言おうか。二人とも真のプロフェッショナルでエンターテイナーでもあるからこそこんな試合になったと思う。
正直、高山ってそんなに好きじゃなかったのだが、この試合ですっかり評価が変わった。高山はその後、ハードな試合内容の蓄積が影響したのか、脳梗塞で倒れる。
2年の休養リハビリを経て今年7月現役復帰した。

PRIDE, K-1には他にも名勝負がたくさんある。
YouTubeに映像が無かったり、尺が長すぎて今回取り上げなかった試合もある。
いろいろ悩んだけど、1位だけは絶対(笑)。
ちなみにこのBlogのTOP画像で睨みを効かせているのはドン・フライだったりする。

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24年前の「薬物オレンジ事件」の情報がネットに少な過ぎるので詳しく書いてみる

ここ10日ほど、亀田騒動でネットもマスコミも騒然といった感じだった。
で、その文脈の中で、しばしば24年前の「薬物オレンジ事件(毒入りオレンジ事件とも言われる)」が取り沙汰されている。
亀田興毅も所属する協栄ジムが起こした日本ボクシング史上に残る一大スキャンダルなので、その事件の名が挙がるのはまあ当然なのだが、何に驚いたって、肝心の「薬物オレンジ事件」騒動についての詳細な情報がネット上にほとんど皆無な事。Googleで検索すればそれなりに件数はヒットするものの、どの記事を見ても情報が少なすぎるし、明らかな間違いもあったりで、事件の内容を詳しく知りたいと思っても全然情報が得られない。
例えば、はてなキーワードの「毒入りオレンジ」の項の記述はこんな感じ。

日本ボクシング史上最悪と言うべきスキャンダル。
1975年3月4日発売「週刊文春」で故金平正紀協栄ボクシングジム会長が具志堅用高の防衛戦の相手に薬物を混入したオレンジを食べさせたと糾弾し騒動になった。

まず、基本的な誤りとして、このスクープを週刊文春が報じたのは1975年じゃなく1982年。
[追記]
はてなキーワードの記述が1981年に修正されてた。でも正しいのは1982年。
あと、ここが重要なのだが、薬物混入の対象となった相手選手の名が明記されていない。実はこの「相手選手」が超重要なのである。このあたりをキチンと考察すると亀田騒動との関連も良く判るのだが、相手選手の実名を挙げた上でこの事件について詳細に解説しているサイトは私が探した限りでは一つも無かった。
これはいけない。この事件について何かテキストを残さなければ、という衝動で、このエントリーを書こうと決めた次第。
前置きが長くなったが、本題に入ろう。
まずは このリンク先を見ていただきたい。ビデオリサーチ社が発表したボクシング中継の歴代視聴率TOP10である。先日の亀田戦は視聴率歴代2位にランクインしている。では亀田でさえ超えられなかった視聴率歴代1位の試合は何か。
1978年5月7日の具志堅用高vsハイメリオス戦である。
そして、この試合こそが、協栄ジムが相手選手の食物へ薬物混入を画策した(と言われる)最初の試合なのだ。
まず、この試合の背景を簡単に解説しよう。
具志堅にとってはハイメリオスとの2度目の闘いであった。
両者による最初の試合は、具志堅のタイトル初防衛戦(1977年1月30日)。
具志堅が序盤にダウンを奪われ、その後も決めてを欠いたまま判定にもつれ込み、結局僅差の判定で具志堅が勝った試合であった。
試合後、具志堅の両目は大きく腫れ上がりどちらが勝者か判らない様な苦しい試合だった。
ハイメリオスはこの階級の初代世界王者でもある超実力者だった。間違いなく具志堅の対戦相手の中では最強だった。
その後は具志堅も危なげない強さで防衛を重ねた。そして、5度目の防衛戦として再びこのハイメリオスと戦う事となったのである。
日本が誇る若き天才ボクサーが、唯一大苦戦をした相手とのリターンマッチ。それが高視聴率の要因となったのだ。
結局、歴代最高視聴率を記録した具志堅vsハイメリオスのリターンマッチは、13ラウンド具志堅がKOでリオスをマットに沈めた。
具志堅はその後防衛記録を13回まで伸ばし、日本を代表するボクサーとして歴史に名を残した。ハイメリオスはこの後一戦だけして現役を引退する事となる。
[追記]
※正しくは、具志堅戦直後に引退し1992年にカムバックして2試合戦った様だ。
そして、この試合からおよそ4年後、協栄ジムによる薬物スキャンダルが週刊文春に報じられ世間は大騒ぎとなった。
当時私は中学3年だった。具志堅の世界タイトルマッチは全てリアルタイムで見ていたから、このスキャンダルはかなりショックだった。
この薬物疑惑の発端は、具志堅vsハイメリオス再戦の際、協栄ジム金平正紀会長がリオスの宿泊先ホテルの料理長に働きかけステーキに薬物を混入させたという内容だったと記憶している。だから当初は薬物オレンジではなく薬物ステーキ疑惑だった。
ちなみにこれが「薬物オレンジ事件」と言われる様になったのは、一連の疑惑追及の中で金平会長が渡嘉敷勝男選手の対戦相手である金龍鉱にオレンジを贈っていた事が発覚して、話題の中心がそちらに移っていった(疑惑発覚当時渡嘉敷は現役世界チャンピオンだったが具志堅は既に引退していた)為と思われる。
誤解が無い様に強調しておくが、具志堅用高は本当に強いチャンピオンだった。同階級の中では間違いなくその実力は頭抜けていた。先の歴代視聴率TOP10を見れば、半分の5試合が具志堅の試合である。それだけ見るものを納得させ、熱狂させたのだ。
『薬物オレンジ』スキャンダルの真相は今もって闇の中ではあるが、仮に本当だったとしても具志堅の戦績が不正に依拠した偽りのものだったとは思わない。薬物に頼る必要など基本的にはなかった。
しかしだからこそ、金平会長が薬物投入を思い立ったのがハイメリオスとのリターンマッチであったというのは、かなり説得力があったのである。
だから、「亀田はランダエタと再戦してきっちり勝てば良い」という意見には素直に同意できない。
両者の再戦がもし実現すれば、状況は具志堅vsハイメリオス再戦の時と酷似する。
具志堅vsハイメリオスの2度目の闘いは、歴代一位の視聴率と日本ボクシング史上最悪のスキャンダルを生んだ。
亀田vsランダエタの2度目の闘いは、果たして何を生むのだろうか。