※当エントリーには、『「水からの伝言」を信じないで下さい』の著者である田崎晴明先生、並びにその関係者各位の皆様に対して不快感を与える表現があります。その件につきましては こちらのエントリー にてご本人に謝罪しています。
『「水からの伝言」を信じないでください』 という記事がはてなブックマークで人気になっていたので読んでみた。
元ネタもツッコミどころ満載なのはその通りだろう。しかしこの反論記事もけっこう粗雑な論理だと思うのだがぶくまコメントを読むと絶賛ばかりでちょっと萎えた。唯一、id:ipsychic氏のコメントにあった
今,現に信じている人にはまったく効果が無い駄文。
というのに同意。結局この記事は、「ハナから信じてない人」が溜飲を下げる程度の説得力しかない。
「水からの伝言」がインチキだと客観的に証明するには、反証実験しかあるまい。やるべき事はそれ一つだ。それが「科学的立場」というものだろう?なぜそれをしない?
著者の田崎氏はその疑問に対する答えをちゃんと先回りして用意してある。しかし何度読んでも意味が判らない。長文で恐縮なのだが、以下抜粋。
たしかに、科学の基本は実験です。今の科学は、これまでの数多くの実験や観察で得られた事実をもとにして作られています。
だからといって、すべての考えを、いつでも実験して確かめなくてはいけない、というわけではないのです。科学の知識がある程度まで増えてくると、新しく実験しないでも、何がおきるかが、ほぼ確実に、わかるようになります。過去の実験の結果についての知識と、総合的な理論をもとに考えることができるからです。たとえば、「あしたの朝、太陽はのぼらない」と言われても、これまで太陽がのぼってきたという観察事実と、なぜ太陽がのぼるのかという天体の運動についての知識を組み合わせれば、「いや、あしたも太陽はのぼる」と言いかえすことができます。
「水からの伝言」についても同じようなことが言えます。これまで、科学の長い歴史の中で、水を使ったさまざまな実験がおこなわれています。その結果、水のもっている性質が、言葉や人の心の影響を受けないことが、ほぼ確実に、わかっています。そのことは、水やさまざまな物質のふるまいについての物理学の理論から考えても、なっとくできることです。
上で書いたように、「水からの伝言」の「実験」はまったく信頼できないものですから、それが「本当でない」というために、新たに実験をする必要はないのです。
もし、「実験に対しては実験で反論するのが科学のルールじゃないのか?」と思われている方がいらっしゃれば、それは、まったくの考え違いです。上のような事をていねいに書いたのは、ほとんどの読者のみなさんが(そして、「水からの伝言」の実験をしている人たちが)科学者ではないからです。もし、これが科学者どうしであれば、話は単純です。これまでの考えとは違う新しい説が本当かどうかが問題になるときには、新説をだしている科学者の側に、説得力のある証拠をだす責任があります。仮に(私は、そうは思っていませんが)「水からの伝言」に「科学のルール」をあてはめていいとすれば、「ともかく、温度と過飽和度を一定に保ち、全サンプルについての統計を取ってください。話はそれからです」で終わりです。
この後、「もっと詳しい説明」というリンクがあるのだが、さらに長文なので割愛。
というか、全体的に文章長すぎ。これ全部読む人って最初から共感しまくってる人だけじゃないか?
で、信じたい人から見れば「なんかこの学者さん必死杉」と見えるだけで長文は逆効果でしかない。
結局言い訳をつらつら並べているだけで「反証実験が出来ない」理由など一つも挙げていない。
やればいいじゃん反証実験。
その結果を示すだけで、ごたくを並べなくとも完膚なきまでに否定できるじゃん。
元ネタと同じだけの労力を使う必要はない。田崎氏は物理学者だけあって、元ネタの実験条件に問題がある事をその前段で指摘しているわけだから、より管理された実験条件を整えればもっと効率よく結果が得られるわけだ。
”一週間これこれこういう環境化で「ありがとう」「ばかやろう」と浴びせ続けましたが、これだけのサンプルを取ってみても結晶構造に変化はありませんでした。”
それで「万事終了」じゃないか。
「そこまでする必要はないだろう?」と言うのなら、似非科学蔓延による弊害も「その程度」という事になる。
他にも、文章として粗雑な部分が散見される。
特に多いのが、「元ネタの実験は信頼性が低い」事しか証明していないうちから「間違っている」という結論を論拠に持ち出しているパターン。
例えば以下の部分。
本当にそうでしょうか? 教えたいことが正しいとしても、本当ではない「実験事実」を本当だといって(つまり、ウソをついて)教えてしまっていいのでしょうか? 実は、このような「実験事実」は本当ではなかったと、あとになって生徒たちが知ったとき、その授業についてどう考えるでしょう?
”本当ではない「実験事実」”、”つまりウソをついて” とさりげなく断言しちゃってる。
その前段ではそこまで証明しきれてないのに。
そういう、ばらつきの大きい結果がでてくると、実験している人のちょっとした思いこみと一致するような結果だけが選ばれて、まるで意味のある結果がでてきたように見えてしまうことが多いのです。
一般論としてはよく理解できるけど、これも根拠の無い憶測でしかない。「水からの伝言」で恣意的な選択が行われた事を客観的に証明するには前に戻るが反証実験以外にない。
きりがないのでこのへんで止めておくけど、結局「結論先にありき」という意味ではこの反論記事も元ネタと同じ。
要するにこのエントリーで何が言いたいかというと、いちゃもんをつけるのが目的ではなくて、リテラシーだなんだと言っても結局人は「信じたい記事」に対してガードが甘くなるんだなーという事。
「だまされないぞ」という想いが強い人は「○○に騙されるな」という類の記事に対してガードが甘くなる。
それって別に悪い事ではない。むしろその方が人間らしい。
でもそういう傾向を誰でも持っているという事をちょっとは自覚しておいた方がいいと思った次第。
[追記]
コメント欄やぶくまコメントにちょっと返答します。
そもそも、科学者がなぜ「似非科学」を批判するかというと、「科学の体裁をとって」間違った知識を蔓延させるから、でしょう?
単なる宗教的思想であれば、それは少なくとも「科学者」が問題にすることではない。
だから、科学者がやるべき事は、似非科学の「科学的に間違った部分」を客観的に証明することであって、「非科学的な事を信じる全ての人々を翻意させること」ではないのです。ここ重要。
似非科学は科学の体裁を装っているだけで「科学ではない」のだから、それが社会的にさほど害が無いのであればスルーすればよいだけだし、社会的な弊害が見過せないレベルのものであればその時はキッチリと叩くべき。それだけの話。
で、いざ「キッチリ叩く」となった時に、「新規なことを主張する側が立証責任を負う。」などと「科学者の論理」を持ち出すのはナンセンスこの上ない。相手はそもそも科学者ではないのだし、それよりも「科学者側から反証実験はしない」と言われて一番喜ぶのは似非科学を提唱する側だから。
原理原則を理由にして敵を喜ばせてどうする。つくづく学者というのはケンカが下手だ。
「水からの伝言」の話で言えば、
「良い言葉、悪い言葉の定義」「結晶の美醜の判断」は問題ではない。
言葉の善悪に関しては「ありがとう」「ばか野郎」という具体例がでているのだから、それを使って実験すれば反証には十分。
結晶の美醜にしても、「言葉の波動は結晶に影響を与えない」事を証明できれば事足りるのだから、美醜はそもそも問題にはならないはず。
というか、科学者の皆さん是非反証実験をしてください!今まで無関心でしたが俄然興味が沸いてきましたw