文藝春秋社は入社試験TOPの人間を採用しない

もう1年以上前の雑誌記事になる。
元「文藝春秋」編集長の堤堯氏がWiLLの2005年5月号で語ったエピソードが妙に印象に残っている。

文藝春秋社の入社試験は、筆記試験で一番の成績を得た者を、それだけで合格者のリストから外す
頭デッカチの秀才を警戒するのである。雑誌記者に秀才は要らない。足腰と好奇心の強さ、発想力と
人脈形成力があればいい。
当方が試験を受けたとき、一番はかの松井やより嬢だった。例によって外され、彼女は朝日新聞に行った。

筆記試験一番の者を無条件で不合格にしてしまうというのは、考えてみれば結構とんでもない話だ。今もその風習が残っているのかは定かではないが、文藝春秋社の常務まで勤めた堤氏が言うのだからそういう事実は確かにあったのだろう。
知識以上に、発想力や人脈形成力をより重視するのは理解できる。しかし、筆記試験一番という事実が「発想力が無い事」の証明にはならない。知識もあって、さらに好奇心も発想力も人脈形成力もある超逸材だって世の中にはいるはずだ。というか、普通はそう考える。
ところがこの乱暴な論理も、「松井やよりはそれで朝日新聞に行った」という実例を聞かされると妙な説得力というか、凄みを帯びてくる。
これって、もはや「論理」ではなく「経験」とか「勘」の世界。この理不尽な採用基準も文藝春秋社が蓄積してきた人事採用「経験」から生まれてきたものだと容易に想像できる。
そして、この手の話はなんとなく「時代」を感じる。昔はわりとこういう話のネタとして面白い逸話が多かった気がする。ある種の「乱暴さ」が高度成長時代のダイナミズムを醸しだしていたというか。翻って今の世の中は「論理」が過剰に重要視され「経験」とか「勘」みたいな要素が随分と蔑ろにされている様な気もする。
まあ、全てが理詰めだと面白みに欠けるのは確かだ。こういう会社が1つくらい有ってもいいのかもしれない。論理を逸脱する事で「得られる何か」もある。そして、それは時にとても大切なものかもしれない。