YouTubeの急激な台頭をきっかけに、ネット界隈では著作権論争が喧しい。
確かに、今の法解釈に照らせばYouTubeは限りなく黒に近いと言えるかもしれない。というか、権利者が本腰を入れて法的措置を取ればYouTubeに殆ど勝ち目は無いだろう。
しかし、実際問題としてまだそうなっていない。最終的な「黒」判定はまだ出ていない。
日本にレンタルレコード業が台頭した時、まだ著作権法に「貸与権」は無かった。極めて違法性の高いビジネスだった。それが今では細かな問題はあるにせよ、ビデオを含めたレンタル業は完全に社会に根付いた。
コンセンサスさえ取れれば法は後からついてくる。どういう意志を持つかが重要なのだ。YesかNoか。是か非か。
Napsterは違法だから潰れたのではない。単純に言えば、RIAAに「No」を突きつけられたから消滅した。もし、Napsterが提示した和解案にRIAAが「Yes」と言えば、それだけで歴史は変わっていただろう。
だからこそ、今「YouTubeを白く塗れ」とネットの片隅から声高に叫びたい。
これは意志の問題であり、政治の問題なのだ。人類はどちらのベクトルに叡智を絞るべきか。前進か後退か。
http://www.youtube.com/上にある無許諾コンテンツが全てデッドリンクになった時、誰が何を得るというのだろう。それが本当に著作権利者の願う世界だろうか?よく考えてみて欲しい。
以前から、「合法違法関係なく、すべての”コピー”はニーズでありビジネスチャンスである」というのが私の自論だ。
著作権法は、素人の作った赤面ラブソングも、ビートルズの「イエスタデイ」も平等に守る。そこに一切の区別は無い。
しかし現実は違う。価値の無いコンテンツは頼まれたって誰もコピーしない。全てのコピー行為には必ず”ニーズ”があるのだ。法律論だけを語るとこの重要な視点が欠落してしまう。
判りやすい例を挙げると、削除依頼もしていないのにYouTubeに1つも自局のコンテンツがUPされていないテレビ局が仮にあったとして、その局はその事実を喜べるか?という話だ。
宇多田ヒカルの1stアルバム「FirstLove」は800万枚売れた。「ダビンチコード」の発行部数は全世界で1000万部を超えた。これらは即ち「合法コピー」の数で、それがそのままコンテンツの「社会的評価」を測るバロメータになっている。
しかし、テレビ局の配信するコンテンツは(一部のドラマやバラエティを除けば)たった一度電波に乗り、「視聴率」という全く当てにならない「評価」だけを得た後にお蔵入りして眠っている。「ピタゴラスイッチ」や「スプーの絵描き歌」がON AIR時どれだけの視聴率を取っただろう?YouTubeを潰した後にテレビ局主導でネット配信を始めたところで、それらのコンテンツに眠る価値を果たして見出せるだろうか。YouTubeの様なCGMスタイルによって初めて為せる業じゃないか。権利者にとっても、そこにはとんでもなく巨大な「金鉱」が眠っていないか。
確かに、権利者は違法コピーから対価を「取り損なって」いるだろう。しかし、それは必ずしも「損失」を意味しない。「削除」してしまえば、それこそ永遠に「取り損なって」しまう。1つ1つのコピー行為に潜む「ニーズ」を意識した時、即「削除」は、権利者にとって果たして「賢い対応」だろうか?
もし、無許諾コピーに対して「削除」以外のアプローチを権利者が模索し始めれば、権利者とユーザの関係も必ずや変化してくる。
本来、著作権者とユーザは「敵」じゃない。何かを創作する人は自分の作品を一人でも多くの人に知って欲しいものだし、ユーザはただひたすら「良い作品」を求めているだけだ。旨いラーメンを作りたいラーメン屋と、旨いラーメンを食いたい客の利害が相反するわけが無いのだ。
最後に、レッシグの著作「Free Culture」の冒頭で紹介されていた示唆に富んだエピソードを紹介しよう。長いのでストーリーを要約する。概要はこうだ。
ライト兄弟が1903年に飛行機を発明した当時、アメリカの法律では、土地の所有者がその地下、上空も全て所有するという立場を採っていた。そして飛行機が発明された42年後の1945年、ノースカロライナに住む2人の農民が実際に訴訟を起こし、問題が顕在化する。
自分の土地の上空を飛ぶ空軍機に驚いて、飼っていたニワトリが納屋の壁に激突して死んだという。農民は、政府(空軍機)が自分の土地を無断通行していると訴えた。
法廷は、「古代思想において、コモンロー上の所有権は宇宙の果てまで続く」事を認めた。
しかしこの訴訟を裁いたダグラス判事は、判決でその思想を覆した。レッシグの引いた判決文から孫引き。
この思想は現代世界では場違いである。議会が宣言した通り、空中は公共の高速道路である。
それが成立しなければ、あらゆる大陸間をまたがる航空路線は、その運営者を無数の不法通行訴訟にさらす事になってしまう。そんな発想は常識的におかしい。
一般感覚としての「常識」が、法解釈の定説を覆した英断だった。この判決が違う結果だったら、今頃、飛行機は権利処理の超やっかいな乗り物だったりして。
無許諾コンテンツは問答無用で「削除」の(権利者にとっての)常識。
対価を徴収できないコピー行為=「犯罪」という(権利者にとっての)常識。
これらの常識は、実は「権利者」の首を絞めていないか。
常識が変われば景色も変わる。
少なくとも、NBCはYouTubeと手を組んだ。
YouTubeを批判する方々はこの事実をどう受け止めてるのだろう?YouTubeが起爆剤となって、著作権の考え方が大きく変わるのを期待するのはそんなに愚かな事ではないはずだ。