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YouTubeを白く塗れ!常識が変われば景色も変わる

YouTubeの急激な台頭をきっかけに、ネット界隈では著作権論争が喧しい。
確かに、今の法解釈に照らせばYouTubeは限りなく黒に近いと言えるかもしれない。というか、権利者が本腰を入れて法的措置を取ればYouTubeに殆ど勝ち目は無いだろう。
しかし、実際問題としてまだそうなっていない。最終的な「黒」判定はまだ出ていない。
日本にレンタルレコード業が台頭した時、まだ著作権法に「貸与権」は無かった。極めて違法性の高いビジネスだった。それが今では細かな問題はあるにせよ、ビデオを含めたレンタル業は完全に社会に根付いた。
コンセンサスさえ取れれば法は後からついてくる。どういう意志を持つかが重要なのだ。YesかNoか。是か非か。
Napsterは違法だから潰れたのではない。単純に言えば、RIAAに「No」を突きつけられたから消滅した。もし、Napsterが提示した和解案にRIAAが「Yes」と言えば、それだけで歴史は変わっていただろう。
だからこそ、今「YouTubeを白く塗れ」とネットの片隅から声高に叫びたい。
これは意志の問題であり、政治の問題なのだ。人類はどちらのベクトルに叡智を絞るべきか。前進か後退か。
http://www.youtube.com/上にある無許諾コンテンツが全てデッドリンクになった時、誰が何を得るというのだろう。それが本当に著作権利者の願う世界だろうか?よく考えてみて欲しい。
以前から、「合法違法関係なく、すべての”コピー”はニーズでありビジネスチャンスである」というのが私の自論だ。
著作権法は、素人の作った赤面ラブソングも、ビートルズの「イエスタデイ」も平等に守る。そこに一切の区別は無い。
しかし現実は違う。価値の無いコンテンツは頼まれたって誰もコピーしない。全てのコピー行為には必ず”ニーズ”があるのだ。法律論だけを語るとこの重要な視点が欠落してしまう。
判りやすい例を挙げると、削除依頼もしていないのにYouTubeに1つも自局のコンテンツがUPされていないテレビ局が仮にあったとして、その局はその事実を喜べるか?という話だ。
宇多田ヒカルの1stアルバム「FirstLove」は800万枚売れた。「ダビンチコード」の発行部数は全世界で1000万部を超えた。これらは即ち「合法コピー」の数で、それがそのままコンテンツの「社会的評価」を測るバロメータになっている。
しかし、テレビ局の配信するコンテンツは(一部のドラマやバラエティを除けば)たった一度電波に乗り、「視聴率」という全く当てにならない「評価」だけを得た後にお蔵入りして眠っている。「ピタゴラスイッチ」や「スプーの絵描き歌」がON AIR時どれだけの視聴率を取っただろう?YouTubeを潰した後にテレビ局主導でネット配信を始めたところで、それらのコンテンツに眠る価値を果たして見出せるだろうか。YouTubeの様なCGMスタイルによって初めて為せる業じゃないか。権利者にとっても、そこにはとんでもなく巨大な「金鉱」が眠っていないか。
確かに、権利者は違法コピーから対価を「取り損なって」いるだろう。しかし、それは必ずしも「損失」を意味しない。「削除」してしまえば、それこそ永遠に「取り損なって」しまう。1つ1つのコピー行為に潜む「ニーズ」を意識した時、即「削除」は、権利者にとって果たして「賢い対応」だろうか?
もし、無許諾コピーに対して「削除」以外のアプローチを権利者が模索し始めれば、権利者とユーザの関係も必ずや変化してくる。
本来、著作権者とユーザは「敵」じゃない。何かを創作する人は自分の作品を一人でも多くの人に知って欲しいものだし、ユーザはただひたすら「良い作品」を求めているだけだ。旨いラーメンを作りたいラーメン屋と、旨いラーメンを食いたい客の利害が相反するわけが無いのだ。
最後に、レッシグの著作「Free Culture」の冒頭で紹介されていた示唆に富んだエピソードを紹介しよう。長いのでストーリーを要約する。概要はこうだ。
ライト兄弟が1903年に飛行機を発明した当時、アメリカの法律では、土地の所有者がその地下、上空も全て所有するという立場を採っていた。そして飛行機が発明された42年後の1945年、ノースカロライナに住む2人の農民が実際に訴訟を起こし、問題が顕在化する。
自分の土地の上空を飛ぶ空軍機に驚いて、飼っていたニワトリが納屋の壁に激突して死んだという。農民は、政府(空軍機)が自分の土地を無断通行していると訴えた。
法廷は、「古代思想において、コモンロー上の所有権は宇宙の果てまで続く」事を認めた。
しかしこの訴訟を裁いたダグラス判事は、判決でその思想を覆した。レッシグの引いた判決文から孫引き。

この思想は現代世界では場違いである。議会が宣言した通り、空中は公共の高速道路である。
それが成立しなければ、あらゆる大陸間をまたがる航空路線は、その運営者を無数の不法通行訴訟にさらす事になってしまう。そんな発想は常識的におかしい

一般感覚としての「常識」が、法解釈の定説を覆した英断だった。この判決が違う結果だったら、今頃、飛行機は権利処理の超やっかいな乗り物だったりして。
無許諾コンテンツは問答無用で「削除」の(権利者にとっての)常識。
対価を徴収できないコピー行為=「犯罪」という(権利者にとっての)常識。
これらの常識は、実は「権利者」の首を絞めていないか。
常識が変われば景色も変わる。
少なくとも、NBCはYouTubeと手を組んだ。
YouTubeを批判する方々はこの事実をどう受け止めてるのだろう?YouTubeが起爆剤となって、著作権の考え方が大きく変わるのを期待するのはそんなに愚かな事ではないはずだ。

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ised倫理研第7回議事録を読み解く(後編)

前編はこちら
前編では「共通ID構想へのカウンター」の途中だったが、当初の予定を変更して共通IDについての言及は最後段にまとめる事とし、倫理研の議論の中で特に興味深かった部分にフォーカスを絞りたいと思う。

「オルタナティブとしてのネット空間」は不要なのか

倫理研第7回の議論が面白いものになったのは、東氏が小倉さんの問題提起を「倫理研のテーマに近づけるために」再定義したのが大きいと思う。これはGood Jobだと思った。
具体的にはこの部分。

東浩紀
 議論を整理しましょう。ネット上の言論、北田さんの表現を使えば
CMC(Computer Mediated Communication)ですが、その価値を評価するときにふたつの立場があるわけです。
それを現実空間からの自律性において評価するか、それとも自律性はむしろネガティブにしか働いていないと
考える
か。白田さんの場合は前者で、自律性を評価している。
後者の立場であれば、ネットはこれからは現実空間により従属したサブシステムにすべき
ということになる。小倉さんはこちらですね

そして、北田氏がそれに応える。

 というのも、CMCは現実のオルタナティブじゃないとまずいと思います
リアルの権力構造がネットにも入ってしまったら、絶対に勝てない人が出てきてしまうでしょう。
だからせめてネットの中だけでも勝てる状況があるべきではないか。
それが公正の一要素だと思うんですね。逆に不正なシステムというのは、負けた人間が
絶対に勝ち上がれないシステムのことだと思います。負けても再び勝ち上がれる経路が常に
保障されていれば、たとえ優賞劣敗が生じたとしてもそれは正当なシステムといいうる。
かつて言論空間はこうしたフラットな空間だったと思うんです。

ネットは、現実社会のオルタナティブたるべきか否か。倫理研の議論の中で、このアジェンダ設定は大きな流れの一つだった。そして、その視点から言えば白田氏も北田氏も小倉さんとの立場の違いが明確だ。
自律性」「オルタナティブ」といったキーワードがブレイクダウンされ、議論はさらに面白い展開を見せる。以下抜粋。

加野瀬:
 共通IDで討議の空間をつくっても、おそらく不満が生まれて匿名空間に流れると思います。
実例を挙げれば、2ちゃんねるのSNS板にはmixiのスレッドがアホみたいにあって、
mixiで感じた不満がこれまたアホみたいに書いてあります(笑)。
東さんは2ちゃんねるのことを「悪口で繋がる自由」*2とおっしゃていた。
しかしmixiは顕名で繋がる社会性になっているので、ポジティブなことで繋がるしかない。
顕名的な空間だと、ネガティブなことは絶対に許されないわけです。

東:
 そしてネガティブな欲求は2ちゃんねるに流れていく。

加野瀬:
 2ちゃんねるとmixiというのはポジとネガの関係だと思います。それが客観的に分かるので面白い。

これは言い換えると、「mixi」のオルタナティブとしての「2ちゃんねる」という側面があるという事。もちろん「mixi」がオフライン空間に近い性質を併せ持っているから、という部分も無くはない。しかし、「mixi」だって紛れも無い「ネット空間」だ。
つまり、オルタナティブとしての「ネット」空間の中に、さらなるオルタナティブがある。多重化された階層がある。これは面白い指摘だと思う。
考えてみると、「多重化されたオルタナティブ空間」はむしろオフライン社会の方が顕著に見られるものかもしれない。
例えば、「懇親会」や「打ち上げ」と称する所謂「酒の席」が古くから日本社会におけるオルタナティブな空間として機能していた。「無礼講」とは、日常とは別のコミュニケーション規範を持ち込もうという意志表示に他ならない。
そして、「2次会」はさらに「1次会」のオルタナティブとして、よりホンネを語りあえる場として機能していたりする。4次会くらいになると、残った少人数ですっかり気を許しあい人生まで語りあってたりするのだ(笑)。
「酒の席」だけでなく、オフライン社会ではある意味ネット以上に「オルタナティブな空間」が幾重にもフラクタルの様に複雑な階層を為している。そして我々は無意識のうちにそれぞれの空間を使い分け、コミュニケーションレベルを切り替えているのだ。
対して、ネットにはその様な「細やかなコミュニケーションレベルの使い分け」は不要だ。
ネットではあらゆる発言が公衆の面前に晒される。前述の「酒の席」に例えるなら、2次会や3次会で為されるような上司の悪口もクライアントに対する不平不満も全て筒抜けだ。そういう意味で、ネットがある種の「残酷さ」を本質的に持っている事は確かだ。
じゃあ、その「残酷さ」は全て排除されるべきものなのだろうか。「本音」というのは時に残酷なものだ。
「2ちゃんねるの自分に関するスレッドをチェックする」と公言する芸能人が何人もいる。そこは、噂の主にとっては「残酷な場所」だろう。なぜわざわざ見に行くのか。視聴者の忌憚無い本心がそこにあると知っているからではないか。
結局小倉さんの発想は、「オルタナティブな言論空間」そのものを否定するものだ。またまた「酒の席」に例えれば、「一次会で帰った上司が、二次会三次会で誰が自分を批判したのかトレースできるようにしよう」というものだ。
あらゆる風評が本人の耳に入ってきてしまうネット特有の「残酷さ」を問題にしているのはよく判る。
しかし何か問題解決のベクトルが違っていないだろうか。isedの議事録を読む限りでは、ネットがオフライン社会の「オルタナティブ」である事自体を問題視している人は小倉さん以外にいないように見える。

共通ID構想の実現可能性について

小倉さんの主張は、問題提起としては価値のあるものだと思うし、だからこそisedの議論も盛り上ったのだとは思う。しかし、それは実現可能性とは分けて考えるべき。議事録での高木先生の発言から引用。

高木:
 そういう仕組みもあっていいとは思うんですよ。たとえばこの場の議論をネット上でやろうとしても、
たしかになりすましや自作自演が邪魔になる。そこで共通IDのメカニズムがあれば、そうした存在を排除した
コミュニティをつくることができる。ただ現状では不可能です。一応はてなダイアリーで閉じてやることもできますが。
そして小倉さんの議論というのは、法改正も含めた上で事業者のインセンティブをいじり、皆がID制度を採用するような
方向に持っていこうというものです。しかしそこまで必要なのだろうかという議論と、少なくとも現状はそうしたことが
できないという議論は分けておく必要があります

なぜ高木さんは「不可能」という極めて強い表現を用いたのか。
なぜ議論を「分けておく」必要があるのか。
パネラーの方々の中で最も技術的見識の高い氏の発言だけにその言葉は重い。
で、ここからは個人的な見解。
結論から言うと、私見では小倉先生のイメージするような共通ID構想が実現する可能性は限りなく低い。まずは、共通ID構想実現までに超えなければならないハードルを箇条書きにしてみよう。

  1. 法改正の必要性を社会に認知させる(啓蒙)
  2. 法改正を立法府における議論の俎上に乗せる
  3. プロバイダ責任制限法の改正を実現する
  4. プロバイダ各社が免責をあきらめずにユーザの実名登録を選択する
  5. 共通ID管理運用専門の民間法人が起業する
  6. プロバイダ・共通ID業者双方が経営的に軌道に乗る
  7. ブログや掲示板のユーザがFC2等の海外法人に流れるのを防止する

ハッキリ言って全項目実現可能性の高いものは一つも無い。仮に各項目の実現可能性を30%と見積もっても(超甘い!)全てのハードルを越えられる確率は0.02%になる。
項目ごとの詳細な説明を始めるとそれぞれエントリー1本分くらいのテキスト量になっちゃいそうなのでここでは省くが、比較的実現性の高い項目をしいて挙げるならば、2と3。PSE法の様な法律が施行されてしまうのを見ると、悪法が必ずしも駆逐されるとは言い切れない。しかし、万が一法改正が実現したところで、その後の流れは市場原理に委ねざるを得ない。そうなった場合コスト面から見ても事業者意識から見てもユーザ心理から見ても上記の様なストーリーで事が運ぶとはとても考えられない。
最初から実現性は限りなく低いと考えていたが、4月10日のブログファン調査でアクティブユーザシェア1位 (※4月17日の調査では再び2位)となったFC2が米国法人と知って、その思いは決定的となった。
あと、ユーザの個人情報に対する事業者側の意識という点についてはこれまで共通ID論争でもあまり語られていなかったので参考リンクを1つご紹介。(個人情報保護法施行後は特に)WEB事業者はこのスタンスがデフォルトと思う。(つまり、共通ID専門業者、なるものはそれだけリスキーで、余程ビジネス的旨みが無い限り誰も手を出さない分野という事)
「不要な個人情報は求めない」ヤフー井上社長、情報セキュリティを語る
以下抜粋。

 これを実現するために最も重要としているのは、「必要以上に情報を収集しない、蓄積しない」ということだ。例えば、ある年齢層に向けた広告を出すために個人情報を取得する際は、わざわざ生年月日を求めるのではなく、生年のみを要求する。エリアを絞った広告を出す場合には、郵便番号で十分なため住所を要求しない。井上社長は、「持っていない個人情報は絶対に漏洩しない」と語る。

[補足]
言葉足らずの部分は多々あると自覚しているが、とにかく共通IDネタは話が長くなり過ぎて疲れる。(小倉さんが構想全体を練り直さない限り)小倉さんの構想が実現する日はこないと確信しているし、この話題をこれ以上引っ張る意味も最早感じない。ので、この話題は多分これで最後。コメント欄には(溜まっているものも含め)レスします。


[さらに追記]
忘れてた!議事録公開前から、isedエントリーを書く時はこれで締めようと思ってたんだった。
加野瀬さんのエントリー
「空気を読む」は「言論の予測市場」
こちらのエントリーで、ised倫理研の打ち上げの模様がリポートされている。

 isedの終電を過ぎた後の打ち上げで、時差ボケで疲れているといった東浩紀さんが急に2ちゃんねるに書き込む!と言い出して、2ちゃんねるの哲学板の自分のスレに「いまから15分すべての質問に答えます」と書き込み。15分過ぎても答えるサービス精神を発揮し、結局始発まで答えてました。

詳細は是非リンク先を参照してください。写真付きでおもしろいっす。この様な光景が、共通ID議論の直後に展開されていた訳です。はからずも本エントリーの話とうまいことリンクした(笑)。やっぱ「打ち上げ」は「オルタナティブ」ですな。
おあとがよろしいようで。

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日本中を熱くさせたカーリングの「聖地」常呂町が消える

トリノオリンピックで日本勢の不調が続く中、「カーリング」が俄然注目を集めた。ネット界隈でも多くのブロガー達が「カーリングおもろい!」と賛辞を送り、一方で的外れなカーリング批判記事を書いたジャーナリストは強い反発を招いた。小泉首相までがカーリングに言及。こんな状況を数日前まで誰が予想しただろう。
erictさんが、カーリングに纏わるメディアの良記事をまとめている。
不可視型探照灯:カーリングの裏舞台を伝えるマスコミの眼差し
必見。カーリングに纏わる話は「イイ話」が多いんで、裏話を知れば知るほどますますハマる。
日本のカーリングを語る時、「常呂町」を抜きには語れない。
今回の日本代表でも、小野寺、林、本橋のレギュラー3選手が常呂町の出身である。残る代表の目黒、寺田は南富良野の出身だが、中学高校時代は常呂町で腕を磨いた。人口は現在わずか5000人に満たない。そんな小さな町から3名ものオリンピック選手を輩出し、彼女らは世界のTOPと互角に渡り合った。
それは町ぐるみで「カーリングの歴史」を積み重ねてきた多くの人達の長い尽力の賜物であり、決して偶然ではない。そして、その「カーリングの聖地」常呂町が、あと11日で消える。
常呂町は今年3月5日に北見市に吸収合併されるのだ。
切ない。
これは単なる市町村合併じゃない。箱物誘致でも企業誘致でもなく、「カーリング」というコンテンツ、文化そのものを町興しの中心に据えた常呂町の慧眼に、全ての地方自治体は学ぶべきである。
常呂町が育て上げてきた「文化」を引き継ぐ北見市の責任は重大だ。北見市はその意味を正しく理解しているだろうか。
1980年にカーリングの元世界チャンピオンが北海道に招かれ、幾つかの町で普及活動をした。それ以来、北海道のローカルニュースや地元番組ではカーリングがしばしば紹介された。常呂町が町を挙げてカーリング普及に努める様子も、何度か特集番組を見た記憶がある。だから北海道では、カーリングの認知度はかなり昔から結構高かった。
しかし、それでも殆どの人はカーリングを正しく理解できていなかったと思う。
スイープ時の滑稽な動作などが要因だと思うが、学校などでカーリングはもっぱら「笑い」のネタだった。
掃除中に、箒を素早く動かしながら「カーリング~~!」と言えば、たいがいウケた。
あー今思えばなんと罪深い。ごめんなさいごめんなさい許してくださいマリリン。
映画「シムソンズ」も、観客動員がうなぎ上りと聞く。この映画にかける常呂町民の想いに関して、Sankei WEBにこんな記事があった
以下抜粋。

一方、「シムソンズ」を映画にしたいという話が町に舞い込んできたのは昨年3月。折しも合併が決まった後のことだった。町は映画を「卒業制作」と位置づけ、全面協力を約束。主演の女優、加藤ローサさん(20)らにカーリング指導を行った。漁協や農協は、カキやホタテ、タマネギなどの名産品を提供、炊き出しを行った。町民はこぞってエキストラとして出演、町ぐるみで作り上げた映画となった。

泣ける。
「シムソンズ」見に行かなくちゃ。

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堀江指示メール捏造過程の仮説

最初に断っておきますが、このエントリーは私個人の脳内推理なので根拠とかあんまり求めないで下さいw。
まず、いろいろ指摘されてる誤字や誤変換などについては、finalventさんから重要な指摘。
永田メール、追記 より抜粋。

 これ、OCRだな。
 なぜ、OCRなんだ?

ワオ。納得。これだとナゾの誤字誤変換も感覚的にめちゃめちゃシックリくる。ただ、finalventさんも指摘しているように、「なぜ?」という疑問が。
そこで、メール捏造過程を妄想してみた。
情報提供者:メール捏造の発案者。PCは使用するがそれほど詳しくない。フリージャーナリスト?
協力者:ホリエモンと以前親密で、メールで極秘のやり取りをした事のある人間(女性?)協力者という自覚は無い可能性も。

  1. まず、情報提供者がこの「協力者」から実際のホリエモンからの過去メールを紙ベースで入手。
     (メールの内容はまったく無関係の文面)
  2. その紙をOCRで読み込み
  3. (OCRソフト上で?)必要最小限の修正を施し、文面捏造。
  4. 元ネタが数年前のメールだったので、シグネイチャなどが変わっている可能性を考えざっくり削除。堀江の苗字だけ残す。 (誤変換には気付かず)
  5. それを印刷。
  6. FAXなどで各種マスコミに売り込み。
  7. 民主党永田議員が釣れる。

メーラは、送信も受信もEUDORAで間違いないと思う。その根拠はX-Sender。このヘッダフィールドはRFC準拠じゃない。MSのOutlook Expressなどでは使用していないはずだ。
メールヘッダから分かる情報とは から以下抜粋。

●「X-Sender」ヘッダから得られる情報
 これは一部のメールソフト(「Eudora」など)が付記するヘッダで,メールソフトで返信先のメールアドレスを別のものに変更していたとしても,メール設定時のメールアドレスがここに記載されてしまう。

従って、前のエントリーでantiECOさんもおっしゃっていた「携帯メール説」もおそらく違う。vodafoneやauの幾つかの機種で確認した限りでは、X-SenderもX-Mailerも携帯メールからは付かない。(DoCoMo未確認だが、わざわざこんなヘッダを使用する可能性は極めて低い)
ちなみにEUDORAの販売元はLivedoor。
で、協力者が使っていたのがMacで、Macからプリントアウトしたものを、情報提供者(捏造者)がWindowsPCを使用してOCR読み込み。古いメールだったので、現在の堀江容疑者のメーラがバージョンアップしている可能性があり、X-Mailerも消さざるを得なかった。
これで、だいたいの疑惑の辻褄が合うんじゃないかな。
考慮漏れあるかな?

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PRIDE 男祭り 2005 頂-ITADAKI- – 結果予想

×滝本誠 vs 菊田早苗○
×ダン・ヘンダーソンvsムリーロ・ブスタマンチ○
○近藤有己vs中村和裕×
○ジェームス・トンプソンvsG・シルバ×
×金子賢vsチャールズ”クレイジーホース”ベネット○
○桜庭和志vs美濃輪育久×
○エメリヤーエンコ・ヒョードルvsズール×
×エメリヤーエンコ・アレキサンダーvsパウエル・ナツラ○
○五味隆典vs桜井”マッハ”速人×
○ミルコ・クロコップvsマーク・ハント×
○ヴァンダレイ・シウバvsヒカルド・アローナ×
×小川直也vs吉田秀彦○
今日は実家で一泊しますが、元旦夜から仕事っす。コメントのレスは今日の夕方くらいにできれば。とりあえず、皆さん良いお年を!

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小泉純一郎の人となりを示す8年前の出来事

私が小泉純一郎という政治家に強烈な印象を受けたのは、1997年の事だった。
当時、橋本内閣の厚生大臣だった小泉は国会議員永年在職(25年)表彰を辞退した。
永年在職表彰を受けると、国会議員には2つの特典が与えられた。
ひとつは、国会が100万円出して画家に肖像画を描かせ、国会の委員会室に飾ること。
もう一つは毎月30万円の特別交通費支給だった。
しかし小泉は
「自分が国会議員をやってきた25年間のうちに国の財政も悪化してきた。その責任を担っている自分が表彰を受け、特典を得るのはおかしい」という理由で、本来堂々と受け取れるはずだった「名誉ある特典」を自ら拒否したのだった。
月額30万円というと大した事無い様に感じる人もいるかもしれない。しかしこの年額360万円の特別支給は非課税で、しかも引退後も終生支給を受けられると言うまさに国会議員の「既得権益」そのものだった。
実際、この「既得権益」を自ら手放すなど前代未聞だった。「変人」の面目躍如である。肖像画を辞退した政治家は過去3名いたらしい(成田知巳、伊東正義、渡部一郎)が、特別交通費はしっかり受け取っていたようだ。「政治腐敗を正す」はずだった社民党や共産党の政治家も、みな例外なくこの既得権益の恩恵に預かっていたのである。
このニュースは当時マスコミもそれほど大きく取り上げなかった記憶がある。実際このエピソードは現在でもそれほど広くは知られてはいないようだ。メディア向けのパフォーマンスではなかったところに意味がある。こういうエピソードにこそ、その人間の本質が表れる。以後、小泉純一郎は個人的に「最も注目すべき政治家」の1人になった。
そして、その3年半後、小泉内閣が誕生した。就任後、小泉が真っ先に手を付けた改革の一つが国会議員改革だった。国会議員歳費法改正案など関連法案が可決され、永年在職議員の特典制度は2002年4月をもって廃止されたのである。
時は経ち、2005年。小泉政権に対して世論は賛否渦巻いている。亀井静香氏をはじめ、多くの人間が「小泉は変わった」と言う。しかし、8年前から小泉純一郎は何一つ変わっていない。
1998年産経新聞正論での小泉インタビュー記事を読めば、それが良く判る。このインタビューは小泉の行動論理を知る上で必読だ。昨今の小泉の言動と照らし合わせても全く違和感が無い。
今度の選挙が、政権選択選挙だとするならば、それは小泉純一郎か岡田克也かのリーダー選択選挙でもある。
岡田克也は以前フジテレビ「報道2001」の番組中、古森義久氏から、民主党の外交政策に関して
「今どき外交で、国連中心主義なんて言ってる先進国は一つも無い」
とツッコまれた事がある。
どんな反論をするのかなと思って見ていたら、なんと岡田は「我々は”国連中心主義”という表現を使った事は無い」と言い放った。
あの発言も私にとっては衝撃だった。小泉とは逆の意味で。
2003年衆院選の民主党マニフェストには 
「国連中心主義で世界の平和を守ります。」と明記してある。というか、イラク派兵等に関して民主党議員が政府批判をする時には「国連中心主義」というのは常套句だ。さすがにあの発言を聞いたときには「岡田、(人として)大丈夫か?」と心配になった。
アルピニスト野口健のWEBサイトでは、橋本内閣行政改革の一環として郵政民営化案が議論された当時、民主党議員達がいかに民営化に前向きだったかが紹介されている。その彼らがなぜか今は「全党一致」で民営化反対だ。これは「政治家の行動論理」が為せる業である。小泉の行動論理が政治家の常識を逸脱しているのと対照的だ。
ついでに言えば、民主党の言う「あと2年は公社で」というのは反対理由になるのだろうか?なぜなら政府案でも公社が民営化をスタートするのは2007年だからである。しかも、完全民営化まで10年かけて段階的にやる、3年毎に民営化委員会が制度のチェック・見直しを検討する事も明記されている。とにかく今の政治家で郵政民営化を声高に叫んでいるのは小泉一人だ。牽引役がいなくなれば郵政民営化は自然消滅するだけだ。
話を元に戻そう。
小泉の政策が全て正しいわけではないだろう。
いつの日か、民主党による政権交代が実現するのもやぶさかではない。
しかし、例え郵政民営化を争点から外したとしても、プリミティブな「信頼感」という部分で「岡田民主党」が選択肢になる事はどうしても考えられないのだ。

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「絶対音感」の虚実

plummet氏から「絶対音感」というちょっと意表をついたネタ振りを頂いたのは、ちょうど2週間前の事だ。
世界の中心で左右をヲチするノケモノ:ブログ漂流~あるいは一つの差別の類型より抜粋。

こういう音楽系の話は、専門家の極道に任せておくべきだったかな。つーわけでどうですかJ2さん(・∀・)ニヤニヤ

「こういう音楽系の話」がどんな話だったかはリンク元を参照。世間一般から見た「絶対音感」という言葉に対するイメージが垣間見れて興味深かった。
plummet氏からパスが来た時は、「よっしゃ、ノートラップでシュートや!」くらいの勢いだったのだが、思いとどまった。自分の経験と思い込みを頼りに自論を書き殴るのは簡単だが、それだけではいささか無責任な感じがしたからだ。
そこで、あらためて1998年のベストセラー「絶対音感」(最相葉月著)を読了し、このテーマに対する思考も少し深めてみた。そんなこんなで、2週間が経過してしまった次第である。
さて、「絶対音感」とはそもそも何なのか。最相葉月氏からの孫引きになるが音楽界で最も権威があるとされる「ニューグローブ音楽辞典」には以下の様に記されているらしい。

ランダムに提示された音の名前、つまり音名が言える能力。あるいは音名を提示されたときに
その高さで正確に歌える、楽器を奏でることができる能力である。

こう説明されてしまうとなんだかそっけないが、対して世間で語られる「絶対音感」にまつわる風評は、はるかに劇的で神秘的なものが多い。しかしそういった風評のほとんどは、正確さを欠いていたり、大仰だったり、絶対音感とは関係の無い話だったりする。いくつかピックアップしてみよう。

  • 自然界のあらゆる音が「ドレミ」で聞こえる
  • 正確には、絶対音感を持つ人の中にも「聞こえる人と聞こえない人がいる」。
    「絶対音感がある」という物言いは、「英語が話せます」というのと同じくらい幅が広い。「英語を話せる」と一口に言っても「日常会話くらいは」という人から「同時通訳」レベルの人までいるように、絶対音感の持ち主と言っても「ピアノの音に限定」「楽器は限定しないが苦手な音域がある」「体調が悪いと判らなくなる」「1Hzの違いも全て聴き分ける」など様々な人がいる。

  • 絶対音感は天才音楽家へのパスポート
  • 「絶対音感」と「音楽の才能」は全く関係が無い
    「優れた視力」と「画家の才能」に例えた人もいるが、いい例えだと思う。そのくらい的外れな話だ。クラシックの大作曲家の中でも、シューマン、チャイコフスキーなどは絶対音感が無かったと言われる。現在ポップフィールドで活躍しているプロのミュージシャンの中で、絶対音感を持つ人は5%に過ぎないと言われている。
    ジョンレノンが絶対音感を持っていたなんて話も聞かない。
    音楽家にとって、絶対音感は「あると便利なツール」でしかない。

  • 不眠症やノイローゼになる人がいる
  • そう訴える人がいるのは「事実」だろうが、それが「絶対音感」に起因するかどうかは甚だ疑問だ。自分の身近にも絶対音感を持つ人は何人かいるが、みんな心身共に健康そのものだ。「情報を認知する能力」と、「認知した情報をどう消化するか」は別の問題ではないだろうか。絶対音感が無くとも、時計の針の音が気になって眠れない人はいる。冷蔵庫のノイズが気になって眠れないのも、何も絶対音感保持者の専売特許ではない。

  • 一度曲を聴いただけで、演奏したり譜面にしたりできる
  • それができるのは、「既に譜面を書く能力がある人、既に演奏できる能力がある人」だけである。バイエルしか弾けない人が、ショパンの幻想即興曲を1回聴いて弾けるようになるという事は、当然有り得ない。それに、こういった事が「絶対音感保持者以外は無理」なのかというと、そんな事は無い。優れた相対音感の持ち主であれば、実はほぼ同じ事ができる。ただし基準音の特定が出来ない為、CメジャーやAマイナーなど、簡単な調に脳内変換する場合が多い。
    ただ、やはり聴き取りの速さ・正確さという意味では絶対音感保持者にはかなわない。

  • 純正律に違和感を覚える。
  • これは良く「絶対音感の弊害」として語られる事だ。
    plummet氏んとこのコメント欄でも、若隠居氏が指摘している(さすが博学です)。
    ちなみに純正律とは判りやすく言うと「和声がよりキレイに聞こえる様にチューニングした音階」であり、それに対して平均律というのは「1オクターブを12等分した音階」だ。ピアノなどの鍵盤楽器や、殆どの電子楽器はこの「平均律」でチューニングされている。要するに、平均律で絶対音感を身に付けると、純正律が「チューニングが狂っている」ように聴こえて気持ち悪いという話だ。
    しかし音階というのは、音の相関関係の定義であり、つまり「相対音感」にモロに関係するものだ。だから、純正律に違和感を覚えるのは相対音感保持者も同じ。平均律以外の音階を知らない、というのが違和感の元凶であり、正確に言うと絶対音感に起因するものではない。しいて言えば、絶対音感を獲得する過程でおそらく刷り込みが強すぎたのだろう。音感そのものよりは絶対音感を身に付けさせるまでの教育手法、過剰な刷り込みに無理があるのかもしれない。

  • 移調が苦手
  • 音楽家全体を見ても「移調が得意」「移調大好き」な人は極めて少ないだろう。曲を自在に移調して弾く、というのは高度なトレーニングの積み重ねが必要であり、絶対音感を持たなければ得意になれるという話ではない。これは推測なのだが、絶対音感を持つとソルフェージュの類はたいがいラクにこなせてしまうもんだから、他でラクをしている分、相対的に「移調が苦手」に感じるというだけの話ではないか。

ある程度の絶対音感は、全ての人にあるというのが私の自論である。
「音極道」に「耳道」のコーナーを作ったのも、そんな考えに基づくものだ。
私の場合、ヤマハで聴音などのソルフェージュ教育を幼少期に受けたのだが、6歳の時にカリキュラムを4ヶ月ほど休んだのが影響したのか、結局身に付かなかった。
「耳道」は自分にとっての「リベンジ」なのだ。
最相葉月氏の「絶対音感」に次のような記述があった。

絶対音感の記憶の深さは、よく母国語やバイリンガルに相当する言語の記憶にたとえられる。母国語を獲得する臨界期は六歳頃であり、バイリンガルになる為には個人差はあるが、六~九歳の間に複数の言語に晒されなくては母国語並みに話せるようにはならない。
  ~中略~  
一方、ダイタイ音感は、臨界期以降に習得する外国語にたとえられる。

この記述は、自分の個人的感覚にも合致する。絶対音感の体得過程は「外国語の習得」に近いと思う。だとすれば、何も絶対音感を諦める必要は無い。幼少期の様な急激な進歩はなくとも、地道な変化はあるはずである。
皆さんにもこういう経験は無いだろうか。
自分がいつも歌っているカラオケの18番。曲が始まった時に、イントロがいつもより高いな、もしくは低いな、と気付いた。
とか、
自分の思い出深い曲や、何度も繰り返し聴いた曲など、頭の中で音を正確にイメージできる曲がある。
などなど。これらは紛れも無く「絶対音感」の断片である。
私の場合、頭の中で音を正確にイメージできる曲は以下のような感じ。

  • イタリア協奏曲(バッハ)
  • 幻想即興曲(ショパン)
  • Yenショップ武富士のCM曲
  • 最近では

  • そのぬくもりに用がある(サンボマスター)

など。
自分の場合イタリア協奏曲の最初の音(F)をイメージしながら耳道をやると正解率が飛躍的に上がった。みなさんも好きな曲を何度も聴いて、その出だしの音が何なのかをチェックしておくと、自分の中の「基準音」になるかもしれない。
あと、最近耳道へのアクセスもお蔭様で増えてきたので、これを機会に耳道に関して少し解説。
ブラウザのアドレス欄に回答結果のパラメータがあるのでそれを参照すれば、回答直後にその正否を知る事ができる。例えば1問目正解直後のアドレス欄を見て ”http://www.virtual-pop.com/ear/ear_q2.php?q1=Y&dm=26901″
となっていたとすると、”q1=Y”の部分が結果パラメータで、この場合1問目正解という意味。不正解だった場合はここがq1=Nとなる。ブラウザの戻るボタンで戻れば同じ問題をリトライできる。
3問目、4問目は専門的過ぎて初心者の方には不親切であるのは否めない。もともと耳道は「自分」の為に作った頁だったので。最近は、挑戦者もお蔭様で増えてきたので、正解解説の頁を追加するのは前向きに検討したいと思います。
最後に。タイムリーにも、デイリーポータルZで絶対音感ネタが取り上げられていた
耳道の次はこちらに挑戦してみると面白いかも。

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産経新聞の見過せない捏造疑惑について

不可視型探照灯さんの記事『産経新聞「第14回地球環境大賞・秋篠宮殿下のお言葉」が自社礼賛発言に』に驚いた。おおざっぱに説明すると産経新聞が秋篠宮殿下のコメントを故意に改竄してフジサンケイグループを賞賛する内容を盛り込んだのではないか?という疑惑である。元ソースはJANJANに掲載された松尾信之氏のこの記事らしい。e_r_i_c_t氏は問題になっている記事のGoogleキャッシュを発見した上でスクリーンショットも捕捉済み。実際に問題記事を読んでみると、これが確かにおかしいのだ。詳しくはe_r_i_c_t氏の記事や松尾信之氏の記事をご覧いただくとして、ちょっと気になるのは「これが朝日新聞だったら多分もっと大騒ぎになっているんじゃないか」という事。
もしこの疑惑が事実だとしたら、よりにもよって皇室発言を改竄して自社の印象操作に使うという悪質極まりない捏造事件になるわけで、たとえ記事を修正して取り下げたとしてもとうてい見過すわけにはいかない。人権擁護法案に関する議論でも痛感したのだが、結局保守派と言われている人達も主義主張を同じくする「身内」の過ちには極端に甘い傾向がある。
自分の認識では、朝日新聞批判というのは「左寄りの立ち位置」に対してではなく、「アンフェアな印象操作や捏造」に対してだと思ったのだが、違ったのか?
朝日新聞に「公正さ」を求めるなら、この産経新聞の修正前記事の様な不自然な誤報がどういう経緯で発生したのか、みんなもっと厳しく追及しなきゃならんだろうと強く思う。つーか、ホントに日本のマスコミってどーしようもない
[追記]
この件について、jod氏JSF氏若隠居氏plummet氏など多くのブロガーが取り上げ始めている。もし保守系御大諸氏がこの件をスルーするようであれば、「公正さ」において保守も朝日の捏造をスルーするサヨクと大差ないという事になってしまう。今後の展開をじっくりと見極めたい。