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技術メモ・TIPS

「モヒカン族」の不在と、「正しき」技術至上主義者

[2005/11/29追記]
fladdict.netのTaka氏から、当エントリーで取り上げている「はてなブクマ論争から、モヒカン族の本質が見えてきた」の「モヒカン」云々の部分は釣りだった宣言をいただきました。釣りエントリーを絶賛してしまうといういささか間抜けな構図ではありますがw、しかしながら、本エントリーの主張が変わる事はありませんので、修正せずに記事はこのまま残します。「モヒカン」云々の部分はスルーという事で一つ。


fladdict.net のエントリー「はてなブクマ論争から、モヒカン族の本質が見えてきた」 が素晴らしい。しかし、ぶくまコメントを見る限りなんとなくTaka氏の問題提起が正しく理解されていないようにも思える(Taka氏ご本人にその真意を確認した訳ではないので、私の方が思い込みで解釈している可能性も否定はできないけど)。
とにかくこの記事に刺激を受けてしまったので、私自身が考える「技術至上主義」についてちょっと言及しておきたくなった。
Taka氏の上記エントリーから、私自身が読み取ったメッセージはこうだ(超訳)。

はてなにはモヒカン族と呼ばれる「技術至上主義者」がたくさん棲息していたんじゃなかったの?
これだけ「ぶくまコメント論争」がヒートアップしてるのに、技術至上主義者ならではの視点で解決策を提示している人は皆無だね。こーゆー時こそ出番なのにね。がっかりだね。
はてなに「真の」技術至上主義者はいないね。
「モヒカン」≠「技術至上主義」だね。

いや、これはちょっと超訳し過ぎかもしれないが…
ちなみに、Taka氏は11月20日のエントリー「はてなブクマのコメントを隠すブックマークレット」 で、まさに「技術至上主義」な視点を提示した。正直「やられた」と思った。今回の記事もこの延長線上にある。
いずれにしても、Taka氏は自身を「技術至上主義者」と位置づけ、またこの言葉をポジティブな意味で使用している。そこがキモだと思う。
さて、こっからが私自身の主張になるのだが。
プログラマを始め、ソフトウェアに携わるすべての技術者にとって「技術至上主義者」は1つの理想形だと思っている。すべてのソフトウェア技術者は「正しく」技術至上主義者であるべきだ
「正しい」技術至上主義者とはどういう意味か?
話を具体的に進める前にちょっと脇道に逸れるが、サイバー法の世界的権威ローレンスレッシグが1999年に書いた「CODE」という名著がある。この本は多くの人に読まれているのだが、プログラムを開発した事の無い人がこの本を読むと非常に多くの人が「誤読」してしまう。
以前、企業か財団法人かは失念したがどこかの会長さんの挨拶原稿(pdfファイル)をネット上で拾った事がある。その挨拶では、レッシグの「CODE」について言及していた。思い出しながら書くが、曰く

サイバー法の権威レッシグという人は、「CODE」という本の中で、将来人々がプログラムコードに支配される世の中になる、と警鐘を鳴らしました。

これ典型的な誤読パターン。この会長さんは、「CODE」の本の中で「コードは法である」という章がなぜ冒頭にあるかを理解していない。過去も現在も未来も「コードは法」なのだ。これは逃れられない現実であり、将来予測ではない。
レッシグが予測したのは、いずれ「権力」がその「現実」に目をつけてコードに対してどんどんコミットしてくる世の中になる、という未来であり、(サイバー空間において)「コードは法」であるというのは、「当たり前の事」として理解するべき現状認識でしかない。
そして、この「コードは法である」という事実を認識する事が、「正しい」技術至上主義者の第一歩だ。
「法」とは社会の秩序を保つためのルールだ。サイバー空間において秩序を形成するのはまぎれもなく「コード」である。
コードが無ければ、人はサイバー空間に存在する事すらできない。CPUはコードが無ければ微塵も動作しない。キーボードを打鍵すれば割り込みハンドラという「コード」がイベントを処理し、上位アプリケーションへ通知する。ブログにコメント欄があるのは、ブログ設計者がそう設計したからだ。コメント欄を閉じるという選択肢がブログ主に与えられているのも、はてなのぶくまコメントが50文字以内なのも、全て設計者の意図だ。サイバー空間においては様々なソフトウェアが連携してその森羅万象全てを司る。あるアプリケーションを人が操作する時、そのアプリの設計者はその空間において全知全能の「神」となる。だからこそ責任が重い。プログラム言語だけ知っていても優秀な技術者にはなれない。
私は大企業社員時代、ある携帯キャリアの交換ネットワーク開発に携わった。全国のネットワークセンターに設置するオペレーション端末のアプリ開発リーダーだった。この時の経験は今でも貴重な財産だ。
とにかく仕様書のレビューを徹底して行った。実際に端末を操作するオペレータにも何度も参加してもらって意見を聞いた。
例えば、オペレータが直接入力するフィールドがあって、その桁数が48文字だったとする。そうすると、すかさず「なぜ48文字なのか」説明を求められる。設計者は全ての質問に論理的根拠をもって答えられないといけない。
「そのフィールドの全ての入力パターンを洗い出し、さらに全体のディスク容量や新たな入力パターンが追加された時の事を考慮に入れて決定した仕様です」
と自信を持って答えられるだけの根拠だ。
48文字で仕様が決まったとしよう。これを詳細設計に落とし込むとまた新たな問題に直面する。
「万が一48文字を超えた入力があった時にどうハンドリングすべきか」
要するに準正常ルートである。
またオペレータに意見を聞く。すると、状況によってエラー画面を出して欲しい場合と、超えた分はカットしてデータ格納して欲しい場合がある事が判る。それを仕様にフィードバックする。
どんな些細な事でも曖昧にできない。「決定」しなければならなかった。「全知全能の神」のつらいところだ。
なぜここまで仕様検討を徹底したかというと、逼迫した線表ゆえに開発工程後の仕様変更が絶対に許されなかったからだ。責任重大だったので当時は必死だった。
しかし、この時の経験のお陰で「コードは法である」という感覚は体に染み付いている(と思う)。
社会で機能する法設計をするには、まず社会を熟知しなければならない。そして人間を熟知しなければならない。
サイバー空間において、「コードが法である」以上、コード設計も同じ責務を負っていると思う。ユーザーが人間である以上、技術の知識だけでは良い技術者にはなれない。
私のイメージする「正しい」技術至上主義者とは、いい加減でワガママな人間の問題を技術の問題に翻訳して解決しようという発想を持つ人である。技術による「大岡裁き」である。
そんな訳で、今回のTaka氏の主張にはおおいに共感した次第。


[2005/11/26追記]
なんだか大事な点が抜け落ちている感じがしたので追記。
Taka氏のエントリーから読み取った「メッセージ」にさらに1つ追加するとしたら、
「Let’s CODE!!」
だろう。ぶくまコメント問題に関して、結局みんな「発言」するばっかで誰も「CODE」を書かなかった。
実際にCODEを書いたのはTaka氏だけだ。私が「やられた」と思ったのは、「実際にCODEを書くという行為」であって、「Bookmarkletによる解決方法」そのものではない。
というか、ぶくまコメント問題そのものの落しどころは正直わからない。Taka氏も同様の趣旨の事を「Bookmarklet」エントリーに書いている。
「考えて判らないのなら、試しに何かCODEを書いてみよう」そーゆー発想の人がもっといるかと思ったのに、という想いが出発点にある。
「モヒカン族考察」が出発点ではないので、そういう意味で誤解を招きやすいのかもしれない。

「「モヒカン族」の不在と、「正しき」技術至上主義者」への24件の返信

すまんソフトの人ではないのでよくわからぬ点が。
僕は「法を犯すこともありうる」という社会設計をしています。これは法の側でそうした準正常ルートも織り込まれているということでしょうか。

オイラが以前所属していた会社は汎用機のコンバージョンが多かったです。汎用機ってのは項目の定義すらなく(あるがほとんどがVBで言うところのナンデモ属性)曖昧な属性のものが多く、実際に移行するにあたってのデータレイアウトなどを決める際によく言われました。
>「なぜ48文字なのか」説明を求められる。
もっと具体的に書くと
「なぜ48バイトの文字列限定なのか?」
の意味からよく説明させられました。それらの項目にオペレータが数値を入力し、計算させようとしているのに、その項目は文字列入力の場合は計算を行わずに出力する。等等。いわゆるマルチフォーマットっていう概念と近年のデータベースの項目属性に縛られたルールってやつの説明がオイラの言葉では足りずに理解されないことが多々ありました。
当時オイラがそのような詳しい仕様をお客様にお話することはいちプログラマーとして本当は禁じられていたのですが、PL、PMが不在だったことも多かったせいか仕方なく説明していたという現状もありました。当然、仕様変更などの話もオイラというプログラマーからPL、PMに連絡して確認を取るという手法で行っていました。今思えばプログラマという範囲ではなく、安いSEという感覚で使われていたように思います。GuestがAdmin権限持っちゃうようなモノですよね。そんなに大した技術もノウハウも無かったのに…
これらのごちゃごちゃからオイラは1年前にサヨナラしたので、山口というのどかな田舎に疎開してきたんですが…(-_-;

nomadさん>
>僕は「法を犯すこともありうる」という社会設計をしています。これは法の側でそうした準正常ルートも織り込まれているということでしょうか。
近いと思います。ただ、オフラインでの法運用というのは、すごく曖昧で融通がきくのに対して、サイバー空間の「CODE」はバグが無い限り完全に曖昧さが排除されてしまうんです。ここがコワイし、レッシグが指摘したのもそこです。
著作権法が100%厳格に運用されてしまえば、イヤな世の中になると思いません??
悪憎ルパン4世 さん>
プログラマがクライアントに仕様説明ですか。PM兼務というのではなく。ちょっとイヤなプロジェクトですねw
汎用機なんて言葉自体最近はあまり聞かなくなりましたねー。
なんとなくノスタルジック。
私も今は北海道でゆっくりと。。。。する予定だったんですが、なんか妙に忙しい今日この頃です。

こんばんは、fladdict.netのTakaです。
お褒めの言葉をいただいてしまいながら、先日のエントリーが釣りエントリで、申し訳ございません。
おそらくはブックマークレットのエントリを読んでいただけたからだと思いますが、僕があろうとしている(まだ実践できていませんが)スタンスを明確にご指摘されていて、非常に近くて驚きました。僕自身は純粋なプログラマではなく、工業デザインやインターフェースなどを勉強してきたのですが、そちら側でもやはり「形状=法」というような話があり、それがバックグランドとなっておりました。CODEという本を読んだことがなかったのですが、これを期に一度読んで勉強してみようと思います。
繰り返しになりますが、これほどのエントリを書いていただきながら、本当に申し訳ございませんでした。

Takaさん>
直接コメントいただき恐縮です。
さすがにTBいただいた時は卒倒いたしましたがw、こちらこそせっかくの釣りに妙な食いつき方をして申し訳ありませんでした。かなりとまどったのではないでしょうか。
しかし、該エントリーの内容があまりに琴線に触れてしまったので反応せずにはいられませんでした。お詫びエントリーで触れられていた「質問厨房がウザイのは、サイトの設計に問題があるんじゃないのか」も以前拝見し共感しまくっておりました。
なので、確信をもって深読みしてしまった次第。面目無いです。それでも、こちらの記事にも共感していただける部分があったとの事で救われる思いです。
いやー私ももっとリテラシーを高めなければ。otsuneさんはさすがですね。
これを機会に今後ともよろしくお願いします。

44歳になったのを機に、より一層オトナになった漏れが来ますたよ。
確かに、「厳格に運用されるのは恐ろしい」と思われるかもしれません。しかし、その曖昧さの排除は物理法則に起因するものだと思います。
物理法則は確かに恐ろしいですが、しかしながらそのどうしようもなさがあっての「世界」であると思います。
そして、その世界をどう捉えるかは、人間の感覚の側に任されていると思います。
そこが運用のつけめではないでしょうか。
僕は弱肉強食はどの世界でもある、と考えます。それは時には糖尿病患者の目を蟻が貪るような凄惨さとして現れることもありえます。
けれども、「糖尿病者は必ず眼を喰われる」世界ではないわけです。この世界は。
僕が「弱者はおとなしくしてろ」と言うのは、弱者を虐げようとしての言葉ではありません。
僕自身が弱者です。
弱者には弱者の戦い方、身の処し方があるということに過ぎません。
泳げもしない者が海峡を横断するようなことは暴挙だというだけではないでしょうか。
それがネットではわかりにくい、というのは、それは弱者の甘えではないかと思うのです。
幸いなことに、ネットでどんな不具合が起きたとしても、それが物理的に起因して死んだり、眼を喰われてはいません。
ほんの少し辛抱して…半年ROMしていれば良いだけではないでしょうか。mixiもあればgreeもあるわけですし、ことさらに自分から情報発信を始めなくても良いわけです。
実際、現実社会でだって、僕が社会に出たての青二才の頃は先輩にどやされてました。
だからといって僕が入ったのがひどい会社だってわけじゃなくて、それが当然の習慣だったし「そういうもの」だったわけです。

nomadさん>
>その曖昧さの排除は物理法則に起因するものだと思います。
物理法則が「自然法則」であるのに対し、サイバー空間を支配する法則は「人工的な法則」です。眼を食われていないのは、今までの話であって、今後もそういう(それなりに平和な)サイバー空間が続くとは限らないわけです。しかも曖昧さの許容できないコード設計は「必ず眼が食われる世界」でさえ可能になってしまうという話です。

CODE ですか…
それはprotocol(プロトコール)のことでしょうか。
設計は仕様によって制限されます。
仕様は目的と物理によって制限されます。
「物理法則に起因する」と僕が書いたのはこの部分です。
そして、目的は人によって定められます。
人によって定められたものならば、人によって変更することも可能です。
目的の無い仕様は仕様としての条件を満たしません。
あるプロトコールが目的に応じた動作をするのであれば何も変更する必要はありません。
「糖尿病者の眼を喰う」のが仕様の目的ならば、常に糖尿病者は眼を喰われなくてはなりません。
しかし、あるプロトコールが、その仕様の目的と合致していない場合。
あるいはプロトコールが、仕様に示された目的以外に利用された場合。
その仕様は書き換えられるでしょう。
人によって。
そういうことではないのでしょうか。

nomadさん>
CODEは、あらゆるプログラムコード、実行コードを指します。
CODE設計が「目的」に忠実であればあるほど、「誤った目的」のCODEは凶器として機能してしまうわけで。
さらに言えば、「当初の目的」は正しかったはずなのにそれがいずれ自分達の首を絞める「権力によるコントロールの道具」に変貌する危険もあるわけで。
そんなような話がレッシグの「CODE」には書かれているわけです。

すんませんね、も少しおつき合い下さい。
CODEは例えば人権擁護法案でも同じ仕組みで動作しているものと思います。
CODEの設計には慎重にならなくてはならないというのはわかります。よくわかります。
僕が書いているのは「人が作ったものなら人が直せる筈だ」ということです。
よくわからないのは、それを直すルーチンが今の社会には無いということでしょうか。

よくわからんのですが……とりあえず近所のおっちゃんは自称糖尿でインスリン関係のネタをしばしば飛ばしますが、目玉が付いているので。
>「糖尿病者の眼を喰う」のが仕様の目的ならば、常に糖尿病者は眼を喰われなくてはなりません。
それは蟻の方のCODEではないでしょうか?
“糖尿病者”が蟻に目を与えるCODEであれば”常に糖尿病者は眼を喰われ”ることもあり得るかと。
一般的な糖尿病者はそれ以前に自己防衛のCODEが入っているので、このCODEが有効な範囲にいる限りは目を喰われずに済むわけです。
このCODEとCODEのぶつかり合う所に蟻が防衛された結果手ですり潰されていたり、糖尿病者の眼が喰われていたりするという事象が存在する。
これが辞書で引く”protocol”と大雑把に合致するような気がします。
http://www.excite.co.jp/dictionary/english_japanese/?block=41484&offset=1876
CODEをprotocolと言うのはちょっと違うような感じです。
http://www.excite.co.jp/dictionary/english_japanese/?block=36106&offset=1492
また、法典という訳があるのも興味深い。

>僕が書いているのは「人が作ったものなら人が直せる筈だ」ということです。
直すにも色々あるわけで、J2さんの話も併せてこんなたとえはどうでしょうか?
(俺はレッシグは読んでません)
ある所に酒好きの人がいます。その人は修正が難しい部分に「酒が売ってるのを見つけると買って酔っぱらうまで飲んだくれてしまう」CODEを持っています。
しかし飲み過ぎは体に悪いし、酒を買いすぎれば財布にも悪いのでどうにかしたいと考えました。
とはいえどお酒は美味しいとも思っています。
そこで「酒屋を避けて歩く」CODEを追加しました(一般によくパッチをあてるという)。その人は余計に酒を買わずに済むようになりました。
–中断
まあこんな感じで人々はしょっちゅう問題がないようにして歩いてるわけです。しかしその対策もよく考えて行わなければなりません。
中断終わり–
現在スーパー・コンビニにすら酒が置かれるようになって、その人は飲んだくれに戻ってしまいました。
実際にはあらたなパッチをあててると思いますが「そのときのCODEを厳密に当てはめるとそうなる」と言うことです。

むむむ…
CODEにはpatchもあるわけですよね。つまり社会もまた仕様がありCODEで運用されていて、想定外の事象にはpatchがリリースされる。
僕はネットもまた社会の延長と考えています。
ならばネットのCODEにもpatchを当てればよいのではありませんか?
実のところ、社会の法整備も十分に練りこまれた設計がされているわけではなく、時代や環境にそぐわなくなって改正されるということも常に行なわれています。
現実社会にも凄惨な状況があり、それは社会のCODEの隙間なのかそれが社会というもののありようなのかはわかりませんが。同様にネットの中で語られるCODEも同様の強度で作用するということではありませんか?
僕自身は、ネットは現実社会の関係性を増幅する方向には作用しましたけれど、ネットそのものが我々の眼を喰いに来たことはないと思っています。
法曹が現実社会の全てを制御しているのではないのと同様、CODE設計者…技術者がネット社会の全てを制御しているわけではないと思うのです。
もちろん、だからこそ隙間が生まれ、その狭間で凄惨な状況になることもありうるでしょう。
けれどもやはりそれも現実社会の反映と思うのです。

しかし、パッチワークの激しいCODEはスパゲティと呼ばれます。
司法に裁判官や弁護士などのエキスパートが必要なほど複雑化してしまっているように、未来のネットのCODEもパッチに頼っていれば余分に複雑化してしまうのではないでしょうか?
そして正しくないパッチをあてることは逆に思わぬ危険に陥ることがあります。酒好きの彼も顔見知りの酒屋で飲んだくれている分には店の人に泥酔しないよう構って貰えるかも知れませんが、コンビニの駐車場で寝込んだ日にはうっかりすれば凍死しかねません。

むむむむむ…
なるほどなるほど。
ならば、Ver.UPすれば良いではないでしょうか。
日本の国の法律がpatcheではさすがにどうにもならなくなってしまい、改正しましょう!という論議になっていることは耳目に新しいことです。
件の酔っ払いもCODEを書き換え、措置入院をしたりAA(アルコホリック・アノニマス)に入ったり肝硬変になったりVer.UPすればよろしいのでは。

レッシグのCODEについて話すのであれば、こんな例え話でも。
ある大手自動車メーカーが、ドライバーが誰なのかを静脈認証によって判別する技術を発表し、全車種に搭載したとします。
車のキーは不要になり、手のひらがキー代わり。登録されたドライバーじゃないとエンジンさえかからない。この新しいカーセキュリティシステムは利便性も相まって大好評。他のメーカーもこぞってこの技術を採用。自動車の盗難事件が前年比98%減。世間はそのメーカーの取り組みに拍手喝さい。
しかし、生体認証という「CODE」が自動車に載ってしまった事で世間が気がつかないうちに、権力による「コントロール権」が大幅にアップしているつー話。
具体的には、生体認証という「あいまいさを完全に排除した認証」が、「動いている車」と「(今)その車を運転しているドライバー」を完璧な精度でマッチング可能にしてしまう。
それは、例えばわずかでも速度超過した瞬間に罰金が自分の口座から引き落とされたり、GPSと連動して、ある人間がいつどこでどの車に乗ってどう移動したかを完全にトレース可能だったりといった社会を実現させてしまうという事。
どんなCODEも最初は世間の味方を装うって話。

そして静脈認証偽証CODEが(ry
>わずかでも速度超過した瞬間に罰金が自分の口座から引き落とされたり、GPSと連動して、ある人間がいつどこでどの車に乗ってどう移動したかを完全にトレース可能だったり
前者は(GPSと連動するなら速度超過に警告が欲しいが)良いことじゃんとか思いかねない(もっと言うと金を取るだけならGPSはいらん。静脈認証付きの車が適宜速度を申告するようになるだけでOK)。後者は自動車爆弾とかでターゲットを暗殺できたりとかするわけですが。
しかし、一見便利で世間に広まるがその後で牙を剥くという構造はレッシグに限らず散々いろいろな所で言われてきたような。
現実にもPCB(絶縁素材)、フロン(安定気体)、アスベスト(耐熱素材)とかのCODEが挙げられます。これらのCODEの問題点は基本的には後付(BUGのあるCODEに該当と思われる)ですが、一旦広まったCODEの排除が大変である事の例としてわかりやすい。
実際ネット上で踏み台にされる端末は後を絶たず、バージョンアップやアップグレードはたやすくはないのです。

そこで生まれるのがチバシティに住む”カウボウイ”運び屋ジョニィ。
CODEには必ずBUGがあり、CODEが厳密であるほど小さなBUGが大きな意味を持つことになる。
世間に広まったビッグブラザーの庇護の下に住む98%の善人と2%のマージナル。
マージナル達は剥かれた牙の間を飛びまわり、命を賭けて善人たちには見つけられない宝物を発掘していく。善人たちを食い物にして。
今の僕らの社会はもうCODEに支配されているけれど、犯罪はなくなっていない。新しい社会には新しい犯罪CODEが開発されて法律CODEを蝕んでいる。
でも、この社会全体のCODEはそれを許容しているようだ。今はまだ社会が崩壊していないところを見ると。
僕は反社会的行動も社会の枠組みの中に許容された存在だと思っています。
ヤクザは犯罪者集団であるのに、いまだに無くなっていないし、それを積極的に利用する人たちも存在しています。
生体認証技術がいくら発達しても、それでも穴は生まれます。
営業車両は盗難リスクよりも管理の手間とコストが増えるのを避けるために認証技術を車両に搭載しようとしません。で、僕みたいなヤツはGPSで補足されるなんて真っ平ですから営業車両として登録したり、タクシー用車両を改造すると。
僕は社会というのはCODEでは崩れないと思っています。CODEができれば、必ずそれを利用するCODEが生まれますから。
社会を崩すのは社会の意思しかないと思います。
スウェーデンでは「家族」というものが崩壊したそうです。社会福祉が充実し、生活の心配がなくなり結婚というものがあまり重要には捉えられなくなったからだそうです。
僕の目からするとずいぶん寂しい事態だなあと思うのですが、反面、呪術的な束縛から解放されたのだという見方もあるでしょうし、家族を禁止したわけではないのですから、そういう社会を選んでいるのはスウェーデン人自身であるとも言えます。
フロンガスは地球を温暖化させ、このままいけばいずれ人類を滅ぼすでしょうが、いつか人類が滅んでも、地球のCODEは変わりようもないでしょう。
その地球も後何年かすれば赤色巨星となった太陽に飲み込まれるのですから。
僕は「権力者」という仮想の誰かを考えて論を進めるのは積極的に賛成はしないんです。
その権力者を選ぶのも作るのも僕たちですよね。
すまんね。僕がつらつら書いているのは、異論というよりも、どんなことが起きるのかのブレインストーミングみたいなもんと思ってくだされ。

ちょっと読み返してみたら、変なとこあり。
社会はCODEによって変化します。
その変化を良しとするかどうかは社会構成員によって判断するべきもの。変化そのものに善悪は無い。
ならばCODEにも善悪はなく、善悪を決めるのは人である、と。そういうこってすね。

レッシグが危惧したのは、「一見便利で世間に広まるがその後で牙を剥くという構造」では無いのです。
CODEが持つ他とは決定的に違う「特徴」に基づく考察です。フロンやアスベストは現実の存在であって、「サイバー空間」のものではありません。例え話が一人歩きしてますね。厳密にはそこは区別して考えるべきです。そしてこれは決して「バグ」の話でもありません。

> 決定的に違う「特徴」
それがよくわかんないんだよな。
サイバー空間と現実世界(というより「サイバー空間外」と僕は考えていますが)の決定的な違いというのは何ですか。サイバー空間は社会の規範とは違う規範で動いているんでしょうか。
それがCODEだというのならば、現実世界には物理法則や法律がありますが、それらが決める制限…現実世界の仕様とどう違うんでしょう。
僕自身はサイバー空間というのは現実世界のある側面であり、現実世界がサイバー空間を包含しているものだと考えています。
しかし、J2さんの言葉はサイバー空間は現実世界と並列に存在しているように聞こえます。それが僕の理解が足らぬところであるならば、そのところをkwsk。
「レッシグ嫁。」と思われるかもしれませんが、レッシグを誤読した方もいましたことですし、そもそもレッシグが正しいことを言ったかどうかはわからんですよ。
どんな天才の言であれ、それを受け取った側で思索を積むのは無駄なことではないでしょう。
僕が誤読をしていたならば、同様に誤読している人を正す道標にもなるでしょうしね。

現実世界という言葉遣いは不適切でした。
「オフライン世界」ですね。
サイバー空間におけるCODEの特徴とは前にも言いましたが「あいまいさが完全に排除されてしまう」という点です。
「誤読」というより、「未読」なわけですから、そこまで興味をお持ちならやはり一読をお薦めします。
ちなみに私はレッシグの主張に全て賛成ではありません。私はレッシグに比べればはるかに「保守的」です。

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