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「パクリ」について熱く語らせてくれ

私にとって、「パクリ」考察はライフワークである。
音極道本サイトの「模倣道(パクリ道)」 も、私なりの遠大なテーマを持ってやっている(まだ2つしか発表してないけど、てへ)。
だからこそ、Blogで安易に「パクリ」について語る事に慎重になっていた。書きたい事が多すぎて収拾がつかなくなりそうだというのもあった。しかし、私の「書きたい衝動」に火が着いた。きっかけは以下の2つの記事だ。
benli:パクリ問題と興奮した第三者について
たけくまメモ:許される模倣・許されない模倣
今は殆ど活動してないとはいえ、私も一応音楽家の端くれだ。創作者サイドの一人として、たけくま氏の見解には諸手を挙げて賛成。そして、昨今の短絡的なパクリ騒動の数々に対しては、小倉先生と同様の危機意識を持っている。(ここまで小倉先生に共感できたの初めてかも)
今回のエントリーでは法的な話は一切置いておく。「作り手」から見たモラリティとして道義上どこまで許せるか、許しがたいかの話に限定する。
まず、大前提として正しく認識して欲しいのだが、音楽、マンガ、小説など、あらゆる分野における創造物の99%は「広義のパクリ」であるという事。これは私の兼ねてからの自論でもあり、奇しくも竹熊氏の言う「厳密な意味でのオリジナルは、この世に存在しない。」という一文ともかぶる。多分、何らかの創作活動に従事していない人にはピンとこない話だろう。できるだけ伝わる様に解説を試みる。
坂本龍一はかつてこう言った。
「現在、ひとつのメロディーとか、ひとつの音楽の中に本当にある個人が創ったと言える所がね、言える部分がね、何パーセントくらいあるだろうかって良く考える事がある。よくても5パーセントくらいだと思う95パーセントは伝統、過去のもの。」
(元ソース失念。引用はこちら から)
この言葉は、実感として良く理解できる。例えばトランスの曲を作るとなった場合、その時点でリズムパターンやアレンジ、テンポなどの要素における選択肢が大幅に絞り込まれる。既にフォーマットがあるのだ。それはまさに先人達の遺産に他ならない。そこから先の要素でオリジナリティを発揮するとしても、全体から見た比率はわずかである。
5%という数字は感覚的な話なので定かではないが、坂本龍一に敬意を表して5%をベースに考えよう。
作品や作者によって、この比率が3%になったり10%になったりする事はあろう。いずれにしてもあらゆる「創作物」は わずかなオリジナリティ+既存のもの の組み合わせで出来ている。しかしながら、その「わずかなオリジナリティ」を出すだけでも、創作者は大変な「生みの苦しみ」を味わう。締め切りが迫っている時などは、まさに地獄の苦しみだ。
そして、私が思う「許せないパクリ」とは、この「生みの苦しみを回避するような盗用行為」である。
では、最近騒ぎになった末次由紀氏 の場合はどうだろうか。漫画家が作品を作る場合、まず作品のテーマ、舞台設定、キャラクタ設定で生みの苦しみを味わうだろう。連載の度にストーリー展開とセリフ回し、コマ割にいつも悩まされるだろう。逆に言うと、それ以外の部分は、漫画作品にとっては枝葉末節だ。
だからこそ、漫画家の大先生がネームだけ書いて、あとはアシスタントがやっても許されるわけだ。まあ末次氏のスラムダンク構図盗用の場合は、コマ割も含めて盗用している部分もあるので幾分悪質かもしれないが、ストーリーやセリフ回しの盗用ならともかく、背景や構図のトレース程度で漫画家としての「生みの苦しみ」がさほど軽減されるとは思えない。第三者が大騒ぎして、連載中止や絶版・回収にまで発展するのはやはり行き過ぎの感がある。
さらに今は、騒ぎが飛び火してネタ元のスラムダンクのカットがまたNBA写真のトレースだとか一部で騒いでいるらしいが、ここまで来るとさすがに唖然としてしまう。
考えても見て欲しい。
「あ、このカットこの写真のトレースじゃね?」
「重ねてみようか」
「あ、右手が重なってないね。左足のとこも違うね。トレースじゃないね。井上雄彦さすがだね」
「あ、このカットはガチだね。重なるね。井上雄彦最低だね」
てか?アホか。漫画の価値ってそんなところにあるのか?
じゃあ何故「魁!クロマティ高校」は糾弾されないのか。(もちろんこっちも糾弾しろという意味ではない)あれだけ同じタッチの絵を描くには、トレースが多用されていても不思議は無い。パロディだとトレースも許される?何故?論理的に説明できる?説明するとしたら、「ギャグ漫画としてのオリジナリティがあるから」ではない?だったら、その正しい感覚をもうちょっと広げてみようよ、と声を大にして言いたい。
今の様なネタ探しごっこばかりエスカレートしていったらやがて音楽でも、この曲の中間部のドラムフィルが、ツェッペリンのパクリだ!とか始まりかねない。
今のご時世に佐野元春や岡村靖幸がニューカマーとしてデビューしていたら、真っ先に潰されていたかもしれない。彼らには元ネタが判る曲も幾つかあるが、いずれも私の大好きなアーティストだ。彼らが20世紀にデビューしていて本当に良かった。
小倉先生は前述のエントリーで
「ポピュラーミュージックの世界だと、むしろ、聞き手が「元ネタ」に気付いてにやっとするみたいな反応をすることが多かったので、」と述べている。ホントにその通りなんだけど、昔と今が違うのは、やはり「ネット」の存在だ。
一般庶民が、恐ろしく伝播力の強いメディアを手に入れてしまった。昔は「元ネタ」に気づいてニヤっとするだけだった音楽ファンも、今の世だったら、ネットで公表する誘惑に勝てないかもしれない。
いや、実際末次由紀氏の件にしても、最初に発見した人はある意味スゴイなとは思う。よく見つけたね、と。見つけた本人も「うわ、すげー発見しちゃった」と思い、公表したい誘惑にかられるだろう。自分が火種になってネットで騒ぎになれば、一時の高揚感を得られるかもしれない。しかしその代償として、有望なクリエイターが一人消えていくかもしれないという事も意識して欲しい。
とはいえ、今の音楽シーンには1%のオリジナリティさえ探すのが難儀な「既聴感」に満ち満ちた音楽もけっこうある。たいていの場合、具体的な元ネタが無くとも先人達の遺産を適当に組み合わせただけで作られた音楽である。そういう音楽は元ネタが判らなくても私にとっては「パクリ」だ
元ネタがあるかないか、は創作にとって全然重要じゃない。重要なのは「わずかなオリジナリティ」。創作者の価値はその一点だ。
ネットは今や庶民にとって、とんでもない武器になる。だからこそ昔以上に、審美眼というか、正しい知識と判断力を身につけて欲しい。批判精神を持つのは良い事だと思うが、批判には常に責任が伴う。知性無き批判は暴力になり得る。
漫画家がどんどん糾弾され数を減らし、漫画雑誌が次々廃刊になり、ミュージシャンの数も今の半分くらいになってしまう世の中なんて誰も望まないでしょ??ただでさえ、文化的にまだまだな日本なんだし。
うーん、やっぱりまとまりが悪いな。続きはまた機会があれば。

「「パクリ」について熱く語らせてくれ」への29件の返信

漫画ジャンルだと漫画喫茶とかそう言った所で目が肥えていったことが大きくあるんじゃないかと。
この記事的に言えばそれが審美眼に追いついてないって事なのかしら?

こんにちは。
今回の小倉さんの危機意識については私も共感してます。末次由紀氏の件にしても、第三者の反応は度が過ぎると思います。ネットという巨大な武器が、日本独自の文化を萎縮しようとしているかも・・・。武器を使用するときは取扱説明書や社会的マナーやルールは守るべきでしょうね。

末次氏についてネットでの騒ぎは大げさだったと思いますが、作品絶版回収という結末については第一に疑義を呈する先は出版社ではないかと。(本エントリにおいて「パクリと騒ぎ立てて絶版に追い込んだ」という論理構成ではないとは承知してます。)

ネット住人って意外と潔癖症な部分がある気がします。
それが悪い方向へ一気に傾くと俗に言う「祭り」になるんでしょうねぇ。
# 委縮効果と云う面では中途半端に危ない共通ID構想とか匿名排斥論とかも同じなんですが
# その点は小倉さん、アーアー見えない聞こえない、でしょうか・・・。
# 凄く勿体ない気がします。

遊び人さん>
有る意味では最近の方のほうが目が肥えてると思うんですが、アーティストの「オリジナリティ=個性」を正等に理解できてるかどうかはあやしいなーと。それは作り手側の責任でもあるんですがね。オリジナリティをちゃんと持ってるクリエイターが少なすぎるので。
漫画喫茶って行った事ないんですが、けっこうみんな行くんですかね??
ケロリンさん>
「祭」になっちゃうと、進む方向がおかしくなった時なかなか歯止めが難しいですねぇ。。。モトネタを探す、というのもゲーム感覚としてはありだと思うし、やはり「にや」っとする位が丁度いいんですけども。
aさん>
や、おっしゃる通りです。で、講談社の措置に対する見解も、私としてはたけくま氏にまったく同意です。ちょっとこのエントリーでは書きそびれちゃいましたが…つか、読み返してみると確かに書き方悪いですね…どっしよかな。
超破瓜さん>
ネットだと潔癖な方が自分の行為を正当化しやすいってのはあるでしょうね。共通IDはどーなったんでしょうね?個人的には、6月ころの主張のままisedGLOCOMあたりに発表して欲しいと思ってるんですがw。小倉先生の発表が確か12月頃でしたから。

PCが壊れてた頃何回か行きましたが、そういえばもう5年行ってないですね(屍
1時間単位の暇つぶしとしてはカラオケと並んでメジャーなのではないかと思います。
カラオケもそういえばもう……(ry
文章の世界はデータの小さなデジタルなのでコピペ(=パクリ)はわかりやすいですね。そして構造をコピーするのが楽というのも理解しやすい。
掲示板は基本的には文章ですからそういった印象を引きずってしまうのではないでしょうか?

こちらのエントリーにもお世話になります(笑)
非常にコレも難しい問題ですね…
エントリーで言われている「わずかなオリジナリティ+既存のもの」という考えには私としても賛成です。
私達が普段使ってるこの日本語にしても「根底となる過去の遺産」+「時代を反映した変化」が与えられ
利用者による「日本語の再生産」によって日々静かに進化(どう言うべきか判らないけどこう書いておく)しています。
また、いわゆる天才と呼ばれる人々によって、「根底となる過去の遺産」部分に手を加えられて全く異質の物になってしまう場合も有ります。
(これは文化的交流が少ない孤立した地方の芸術・文化の独自性からみても明らかといえるかな?)
では、どうすれば良いのか?
一つの結論としては既に出てる気がします、J2さんの本サイト「模倣道(パクリ道)」におけるサイトTOPにある一文
「模倣曲を制作することにより優れた楽曲の構造をより深く理解する」
その過程で作品にこめられた思想、オリジナリティに触れることが重要ではないのかと考えます。
竹熊健太郎氏のサイトでも最後に取り上げられた「マンガ表現を根源的に考える会」も同様の目的が有るのではないかと推測します
詰まるところ、「編集者」竹熊健太郎として法律的な見解でなく、実地的な面からこの件について考察した結果
マンガ表現に関わるものとしての文化を継承・教育する責任を十分に果たせていないと感じ取ったのではないでしょうか?
現在、「漫画家」末次氏の件は主に漫画家本人の責任を大きく問われる結果になっていますが、
その影にある漫画家を支えてくべきである「編集者」の責任も無いとは言い切れないところが問題の根が深いところかな…と。
まぁ、一定の業界に限らず創作を主とするもの全てがこの問題を孕んでいる訳で私も人事とはいえない訳ですが(笑)
法だけに則れば結論は白黒はっきり出せますが、裁量を要するものの結論はやはり出しにくいですね…
どこまでを良しとするのか、どこから駄目なのか法とは別のモノサシが明確に有ればみんなが幸せになれるのかもしれないですね
だた、現実はモノサシが各個人個人で違っているのでどうにもならないと…そんなハリネズミのジレンマ
とは言え考えさせられる面白いエントリーありがとうございました

遊び人さん>
おっしゃる通りで、ネットの匿名文化は、「テンプレート的なものにオリジナリティを付加する」感覚が身近ですよね。
で、元ネタそのものにオリジナリティが無いと、元ネタに誰も気づいてくれない、みたいな状況になるわけで、そこらへんが「パロディには寛容」なところと繋がってくるのかもしれませんな。
読者見解さん>
やっぱり、現状だと、「著作権法」と「モラル」と分けて考えざるを得ないんですよね。なぜかというと、今の世の中ではもう、「悪質なパクリ」が「法では裁けない」パターンが多いんですよ。音楽でも今はメロディもコードワークも出尽くしちゃって、サウンドメイキングやアレンジが勝負になってくるわけですが、そういうところの「パクリ」は著作権法じゃ多分裁けない。まさに「生みの苦しみ」を伴うところにも関わらず。
末次氏の件で、編集者の責任は私もかなり大きいと思います。ちょっとそこは怒りを覚えるくらいで。
どこまで許されるのかは永遠に答えは出ないかもしれませんが、一つ明快な答えとしては、「パクられた側が激怒したら、それは多分一線を越えてる」って事ですね。
当たり前の事なんですが、最近はそこが随分と軽視されてるw。

オリジナルは存在しない!?

「オリジナルというものは存在しない」という類の言説を最近目にします。例えば許される模倣・許されない模倣(たけくまメモ)や

中井亀之助さん>
おー、こちらには初お目見えですね。
めっきり寒くなってきたので熱めの御茶を( ・∀・)つ旦~~~
中井さんにそう言っていただけるとうれしいです。

(マンガの)編集者の存在・責任はかなり大きいという見解ごもっともです。
『編集王』原案でお馴染みのマンガ編集者八巻和弘氏が以前インタビューで以下のように言ってました。
「編集者っていうのは映画にたとえるとプロデューサーだと思ってます。…(中略)…最後に責任をとらなくちゃいけないのはプロデューサーですよ」「僕がいつも作品に自分の名前を載せてもらうのは…責任をとるべきだと思うんですよ、編集者が」(『マンガ狂い咲き』p.164-165/コアマガジン、1998)
この発言はパクリ問題とか著作権がらみでなされたのではありませんが、作品づくりについて熱く語られたものでした。
で、作り手というときのその作り手の範囲ってどこまでなんだろうと思ってしまいます。ドラマや映画なら脚本家がいる監督がいるカメラマンがいる役者がいる、マンガにも編集者がいる、音楽だってプロデューサー・ディレクター・エンジニアがいる。作り手って誰のことになるんだろう。そのあたりが良くわからないんですね。
J2さんのエントリで述べられた「創作者サイド」というのは、あくまでも一人の創作者/孤独な産みの苦しみ/個人という感覚で拝読しました(論調からそのように感じたもので。誤解でしたらすみません)。バンドでもそうなんでしょうか。
オリジナルかパクリかというのと離れてしまったようですが、まあその、「これ俺の」と言える人はどこまでなんだろうといいますか。『自分ひとりで作ってると思うなよ』というあたりで繋がるのかもしれません。

マンガ制作ではさいとうたかをプロ方式もあれば本宮ひろ志方式もあったなあと思いつつ。それこそ音楽では「あの曲のあのパートのアイデアは本当は俺が云々」的な話は山ほどありますよね。ガムあげる。もう。

aさん>
編集王!ナツカシス。
>作り手というときのその作り手の範囲ってどこまでなんだろうと思ってしまいます。
作る事に携わり、その作品に寄与した人は作り手だと思います。プロデューサー、エンジニア、皆文句なしです。彼らの仕事は著作権法で守られるかというとそれは絶望的ですが、作り手同士は直感で判ります。理屈ではなく。つまり、その独創性が誰によってもたらされているのか、一緒に作業していればそれは明々白々なのです。
だからこそ、本当に優れたアーティストはレコーディングエンジニアをわざわざ指名したりするわけです。
そして、どんなに共同作業をしていても「一人の創作者」なのです。自分に任された部分は、自分が「何か」を生み出さないといけない領域で、その部分の「生みの苦しみ」は基本的にその人間が一人で負わなければなりません(もちろんその過程で話し合ったりする事はあるでしょうけれども)。
>それこそ音楽では「あの曲のあのパートのアイデアは本当は俺が云々」的な話は山ほどありますよね。ガムあげる。もう。
ガムもらいーー(・∀・)つ[ガム]
「本当は俺が云々」ってのはいろいろなケースがあると思うので一概にはなんとも。ホントに優れた人が冷遇されている場合もあれば、単なるその人の逆恨みってケースも少なくないような…。

井上のトレースはスラムダンク連載当時から、漫画オタクの間ではわりと有名でしたよ。NBAだけでなくファッション雑誌からもパクってる。んで、井上手ェ抜いてんなーって感じだった。

パクリを低労力化と言う面だけで評価するとこういった見方もありますかね。
軍板常見問題FAQ
http://mltr.e-city.tv/faq12c.html#03337
「【珍説】 「自動化によって兵器の扱いは楽になっている」???」の中後段
ただし軍事組織ってのはスパイだろうが何だろうが目的はたせりゃそれでよし的な部分があるので、これを末次氏に当てはめると「よっぽど作品としてアレだったのだな」という風になりますが、多分そんな事実はないと思う。

オリわねーオリわねー、「グレーはグレーなままに」っていう意味は「マンガみたいな反体制的な文化に品行方正を求めないで欲しい」ってことなんだよな。
もちろん、こんなこと、今の世の中では通用しないってのは承知。
しかし俺はバイク乗りっていう潜在的犯罪者だからな。そういうふうに思っちゃうわけ。
世論にはなりえない負け犬の遠吠えなんだよなあ。
でも遠吠えなんで大声で。迷惑だと思うが吼えてしまう。

>15は俺です、と書くついでに。
金曜日の深夜に(日が変わる時間帯なので土曜日とも言う)犬の散歩をしていたら、単独珍走的行為の人に脅かされたので(飛ばすならまっすぐ走って下さい。エンジンふかしながら近寄るな)バイク乗りの潜在犯罪者の人に良い感じは持ってません。
nomadさんがそういう人かどうかはわかりませんが。

14>
つーか、井上雄彦の様な画風であればトレースが多用されて当然でしょう。それがなぜ「手抜き」と言われてしまうのか私にはよくわかりませんが。
遊び人さん>
自動化云々の話で言えば、漫画制作におけるコンピュータの使用の方がイメージ的に近い感じがします。
おそらく「兵器の扱い」という点では求められるパフォーマンスレベルの向上があると思うのですが、漫画は手書きの時とアウトプットはそれほど変わってませんから、その分「ラクになっている」と言えるでしょうね。
しかし、ラクになるってのは「創作」以外の作業を効率化する事によって作者が「創作」により時間をかけられるようになるって事であって、トレースなどを「ラクしてる」と非難している人は肝心なところが判ってない気がします。
nomadさん>
漫画が「反体制的文化」という認識そのものがもう無いんじゃないかなー。ジャパニメーションの世界的人気などもあって、「マンガ」はむしろ日本文化の中心であって、世界に誇るもの、みたいな認識の方が多くないですかね。

負け犬が遠吠えしてる所に石ぶつけないでよ(苦笑)
確かに、現代のマンガは産業であり文化になっちゃったんだろうね。なりつつある過程なのかもしれんけどね。
「江戸時代は浮世絵なんかたかが大量生産のグラビアだったじゃねえか。古紙なんてオラァ襖の下張りにしてたぜ」っていくら言っても詮無いこと。マンガも今や浮世絵と同じ道を辿っているという訳です。
僕が言ってるのはノスタルジックな感傷に過ぎない。それもわかってるよ。
銭湯の跡継ぎみたいなもんでね。「スーパー銭湯とか健康ランドとかになっちまったらそんなの銭湯じゃないやい」って具合。駄々をこねてるだけかもしれない。
わずかに「文化っていうのは心の裡にあるんじゃないのか」と言いたいものの、サブカルのどの口がソレを言うかと。口元をひねられてお終い。
所詮ぢぢいの繰言。
「珍走団と一緒にしないでよ」といくら言っても、まあ、無駄だわな。何言ったってバイク乗りはバイク乗り。しかもどこを切ってもヘンタイの汁が出るようなバイクだしな。それも自覚してるよ。
仕方ない。好きで選んでやってるんだから。
わぉおーん…

マンガというジャンルが総体として市民権を得て中心の「体制」となった一方、ジャンル周辺では反社会的でいかがわしいマンガが生産され続けるということだと思います、需要がある限り。マンガに限らずなんでもそうでしょうけど。無問題。
給料いい大出版社がマンガ雑誌抱えてるんだからやっぱり脇の甘いことやっちゃ死活問題ですね。だから、マンガ家が無邪気でも編集がしっかりしろというのがある。大手の高給取りならなおのこと。
高給で思い出しましたが、上のほうで書き込んだ編集王・八巻氏は件のインタビューで「給料高いのはよくない、飼われちゃうから。それよりマンガ家に投資してあげないと」と熱く語ってました。今当てはめればさしずめ、給料削ってフォトライブラリー/法務充実ってとこですか。

nomadさん>
オレが悪かった!!許して!!
わぉおーーーーーーんうぉんうぉん!!
aさん>
八巻氏、熱いなぁーー!編集王読みたくなってきた…
いやー、ホントに編集しっかりしろと。末次氏の件に関しては、たけくま先生が訝っていた様に、なんかあったのかもしれませんね。ちょっと有り得ないもんなー。いくらなんでも。

「パクり」雑感

敬愛してやまないJ2氏の音極道茶室に「『パクリ』について熱く語らせてくれ」という記事が。
コメント投げようかと思ったけど長くなるといけないので、トラックバック…

>14 NBAだけでなくファッション雑誌からもパクってる。
できましたら、
「xxxの話の(この人物)の(こういう服装)は、
(その頃の)xxxというファッション雑誌からの模写のようだった」
という風に教えていただけますか?
よろしくお願いします。

根が深い問題ですね。
判定している人は社会に出たら沈黙するでしょうね。
漫画や音楽と無縁な業種に就職してもこの問題は避けて通れないことですから。
漫画のトレースから離れますがリバースエンジニアリングはそこら辺のメーカーで割とよく行われることなので、これって学校教育で教えるべきじゃないかといま思いました。
徒競走とかの周りくどい教育しても分からないんですよね。
自分の子供が知らないところで商品のパクリ判定サイトを作ってたらと考えると頭痛くなる人とか多そうです。

23>
良いコメントだと思ったので、ハンドル名書いていただければうれしかったです。
難しい問題であるが故に、実は単純な話でもあるんですよね。そんな事をまたエントリーで書ければと思います。
リバースエンジニアリングの要素は、あらゆる学問に内在しているのではないでしょうか。模倣道にも書いてるように、まなぶ=まねぶ ですし。

遅レスです。
末次さんの問題点はトレースそのものより最初に末次さんご自身の掲示板であのシーンはスラムダンクのトレースじゃないですか?っていう質問にかなり感情的になって過剰反応したのが問題かなと思っています。
「ぜったいにトレースしてません!名誉毀損です!」とか何とかそんな感じだったような。「あー。トレースしてますよー。あのシーンを参考にしました。」とかは言えたと思うのですよね。
トレースそれ自体は漫画の根幹に関わらない程度であれば必要なときはあると思うのには賛成です。ストーリーと絵とコマわり全てをコピーしてたのなら問題ですけど。
どのみち回収はやりすぎだったと思いますけど。

ご報告ありがとうございます。
おもいっきしパクられてますねえ、あきれた。
件の記事は3年前の記事で、今では慶応のサイトはとっくにランク10ですからね。なんだかなあ。

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