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そもそも同一性保持の概念は「音楽」にそぐわない

 
プロのミュージシャンが「他人の曲」を演奏する時
 
「完コピ」する者など皆無だ(いたら笑い者だ)
  
  
  
「同一性保持」を言い出したら
 
例えば「JAZZ」というジャンルは消滅する
 
JAZZがインプロビゼーション「即興」で創られるからだ 
 
演奏するたびにJAZZは形を変える
 
 
 
ヒップホップもそうだ
 
「同一性保持」とは真逆の発想がヒップホップを生んだ
 
 
 
法律がどうであれ
 
それが 「音楽」の実態であり コンセンサスである
 
 
法律がどうであれ
 
そもそも同一性保持の概念は「音楽」にそぐわない
 
 
 
「おふくろさん」のバースについて言えば
 
川内氏が創作した部分は 一語一句変えられていない
 
イントロにすら かぶっていない
 
トッピングにすらなっていない
天丼の横に漬物の小皿を置いただけだ
 
 
「音楽」のパフォーマンスにおいて これは日常茶飯である
 
 
 
法律がどうであれ
 
それが 「音楽」の実態であり コンセンサスである
 
 
法律がどうであれ
 
そもそも同一性保持の概念は「音楽」にそぐわない
 

「そもそも同一性保持の概念は「音楽」にそぐわない」への41件の返信

J2さん、こんにちは。福田です。
おっしゃりたいことは分かるのですが、ちょっと違うように思います。ジャズは即興的に変奏はしますが、決してオリジナルを改悪するわけではありません。ヒップホップだってハウスだってどんなに奔放にリミックスしたとしてもオリジナルを改悪するようなマネはしないでしょう。
今回のケースは川内氏の仏教的な世界観が表現された世界観が、「いつも心配かけてばかりいけない息子の僕でした」などと勝手に親不孝な息子像が加えられることで単なるヒューマンな親子悲話に成り下がってしまったことが問題なんです。これは「改悪」以外の何ものでもないと思いますがいかがでしょう。

「天丼についたおしんこ」ならともかく
「今から旨い日本酒を飲もうとしてるのに手始めにチョコレートケーキを出すたぁどういう了見だ」
てな感じなんですかね。
そうなると「いや別に毒じゃないですし」「チョコレートケーキも特別高級でおいしいんですよ」「最近はこういうのもアリじゃないかと」「第一、別のものですし好き好きですから」とどんなに言葉を重ねてもどうにもならない。
こうなったら著作人格権とかそういう法律の話ではなくて人情、仁義の話になる、と。
川内さんは、もう法律だとかそんな話をしたいんじゃなくて、とにかく森の態度が気に入らなくなっちゃったんじゃないですかね。
いや、そりゃそうなると、別の角度から見れば横暴に見えますけども、「俺が目をかけてやったのも理屈でやってたワケじゃない」っていうのが川内さんの言い分なんじゃないでしょうか。

まあそう考えると「同一性保持」という概念は、作者に対する「リスペクト」である捉えることができるでしょうね。確かにJ2さんがおっしゃる通り、そんな作者に対する「リスペクト」など不要だ!という考えもあるかも知れませんが、「音楽」のパフォーマンスにおいて「リスペクト」を欠いた行動というのは日常茶飯事でも何でもないということだけは確かなことです。

リスペクトの有無の判断は、盗作かオマージュかの判断ぐらい難しい、というか第三者には不可能じゃないでしょうか?
結局作者が面白くないと思えば他人がどんなに評価していてもアウトになってしまいます。

時間がないので個別レスはご容赦ください。
リスペクトだとか改悪だとか、そんなものは議論したって結論は絶対に出ないんです。答えなどないんですから。MG5さんがおっしゃるとおり。
だからこそ、重要なのは著作権者の心情じゃないんです。第三者的に、客観的にその内容に問題があるかどうかということ。
侮辱罪や名誉毀損と本来は同じであるべきってことです。今の同一性保持権を侮辱罪に例えると、「本人が侮辱されたと言えば全部アウト」という状態なのです。もっと「内容」が精査されるべき。
まあ、その話とはまた別に、このエントリーでは
「音楽家」的な感覚から見た心情を綴ってみただけです。

>だからこそ、重要なのは著作権者の心情じゃないんです。
いえ、だからこそ重要なのは著作者(著作権者ではない)の主体性なんです。そうでなければ、本当にロラン・バルトの「作者の死」になってしまいます。著作者の尊厳を蔑ろにするべき根拠はどこにもありません。
>まあ、その話とはまた別に、このエントリーでは
>「音楽家」的な感覚から見た心情を綴ってみただけです。
音楽表現を生業にしている者として言及させて頂くならば、J2さんの綴られているご趣旨は「音楽家」的な感覚というより、「コモンズ」を大義にかざす「フリライダー」的な感覚にしか思えないのですが、J2さんがお考えになる「音楽家」的な感覚というのは、まさにロラン・バルトの「作者の死」を体現することなのでしょうか。

>法律がどうであれ
>そもそも同一性保持の概念は「音楽」にそぐわない
 
そこで同一性の概念を持ち出すことが、そもそもそぐわない。
演奏によって同一性が無い?当たり前じゃん。
だから実演家には著作隣接権が与えられるんでしょ?
表現者として言いたい事は分かるけどさ。

>だから実演家には著作隣接権が与えられるんでしょ?
隣接権が、原著作者から同一性保持権を行使されるのを防ぐ役目は果たせないのでは?
だったら、PE’Zの事件がなぜ起きたのか説明していただけませんか?

>だったら、PE’Zの事件がなぜ起きたのか説明していただけませんか?
PE’Zの一件も今回の件と同様、著作者への「リスペクト」の欠如が要因であるようです(単純な話、「リスペクト」の有無は「無断か否か」という客観的事実として判断可能です)。佐藤氏が「編曲したいのなら、事前に相談するのが礼儀では。事前抗議を無視する形で何万枚と商品が流通した」と述べておられる通り、やはり私も「無断改変OK!」みたいな風潮は賛同し難いですね。

本当に「作者の死」を歓迎していいのか!?

「演奏家は作曲家の奴隷である」──これは、作曲家のM.ラヴェルが自分の曲を勝手に改変されたことに対して放った言葉です(ピアノ奏者であるP.ヴィトゲンシュタインが…

PE’Zの事件はお任せします。
著作隣接権が何故実演家に発生するかといえば、そこに「実演における解釈」が加わるからです。だから著作権に準じる権利が与えられているんです。
 原作者は演奏権・上演権を実演家に許諾する際に、通例程度の「解釈による違い」は許容していると解されるべきでしょう。
 畑は違うけど、僕も根っこは役者であり演出です。
 この世界でも、台本とト書き通りに芝居は成立しないのは常識。そこに生身の役者と演出がいるから。むしろどんどん変わるのが常です。
 でも、セリフが本番で変わったり、ネタが変わったからって、誰も同一性侵害で訴えたりしません。そういうもんだから。
 ただし、原型が分からなくなるほど改変したり、脚本家にとって「大事」なものをわざと落としたりしたら、そりゃ脚本家怒ります。脚本家だって「表現したい」から書いてるわけであって。
 だから演出上「脚本家の大事なもの」を落とすとき、普通の演出家は仁義を切ります。
 脚本家にとって大事なものが分からないような演出は、舞台に立つ資格はそもそもありません。だって台本が読み込めてないんだから。
音楽だって一緒だでしょ?
森氏は、大事なものが分からなかったんです。

PEZの件は、確かに人格権オンリーで語れる話ではなかったですね。ここで持ち出すのは不適切でした。
孝好さんのおっしゃりたい事は理解しました。
私としては
”法律がどうであれ”
”同一性保持の概念”
という言葉遣いをした意図を汲み取っていただければと思います。
このエントリーはあくまで音楽に携わる者としてのプリミティブな「感情」の吐露です。
あと、
>森氏は、大事なものが分からなかったんです。
というのは、バース部分が森氏のアドリブであればおっしゃるとおりかもしれませんが、(前エントリーの話ともかぶりますが)このトラブルの本質は別のところにあるのではないかと思ってます。

補足です。
>音楽だって一緒でしょ?
このエントリーで言いたかったのは、「一緒じゃない」という事です。
JAZZはその本質がインプロビゼーションであって、役者の場合の「アドリブ」とは意味が違います。「スジナシ」の様な即興ドラマであれば近いかもしれません。
ヒップホップ(を始めとするサンプリングミュージック全般)について言えば、「既存音楽の分解+再構築」という概念が根本にあって、(単なる実演における差異というレベルではなくて)いずれも同一性保持の「概念」とは基本的に「相容れない」性質がもともとあるよね、という話がしたかったのです。

うーん。なるほど。
でも、演歌はJAZZやヒップホップじゃないっすよね。
音楽でも、その分野分野で常識は変わるはず。
特に演歌なんて「情」を歌い上げる世界ですから。
だからこの問題、ただの「礼」の問題だと思うんですよねぇ。

>JAZZはその本質がインプロビゼーションであって、役者の場合の「アドリブ」とは意味が違います。「スジナシ」の様な即興ドラマであれば近いかもしれません。
JAZZのインプロビゼーションは決して「スジナシ」ではないですよ。決められたメロディ、コード進行に則って演奏されます(フリージャズまで行くとまた別ですが)。色んな曲を演奏するJAZZミュージシャンは既存音楽を分解しようなどとは考えていません。他人の曲を演奏しているからと言ってリスペクトをしないわけではなく、むしろそのオリジナル曲を誰よりも素晴らしく演奏をしようと精進している程です。
また、サンプリングミュージックに関してですが、ポイントは「無断」か否か、でしょう。許諾を得て入れば、どんな使用方法を選択しようが同一性保持の「概念」と衝突することはありません。また、国内における「同一性保持の概念」を批判なさっていますが、サンプリングミュージックにおける無断使用に関して言えば国内的問題に限りません。数年前の記事ですが、以下のような記事をご参考ください。
http://hotwired.goo.ne.jp/news/business/story/20040909104.html

はじめまして。
はじめましてなのにすいません。
音楽を実際にやってる方ではないですよね?
それだけ確認したかったので。

>音楽を実際にやってる方ではないですよね?
なぜそうお思いになったのでしょうか?
このブログは、「音極道」というサイトの1コンテンツです。
よろしければ
http://www.virtual-pop.com/
から他のコンテンツもご覧になってください。

レスありがとうございます。
そのコンテンツは拝見しております。
質問にはお答えいただけないのですか?

↑これは私でした。すいません。
私はJ2さんの実際の演奏、音楽製作経験について尋ねています。よろしくお願いします。

失礼いたしました。
http://www.virtual-pop.com/tearoom/archives/000108.html
やっと上記記事にて発見いたしました。
>今は殆ど活動してないとはいえ、私も一応音楽家の端くれだ。創作者サイドの一人として
ということでよろしいのですね。
せっかくの孝好さん、福田さんのお話に水を差してしまいました。申し訳ございませんでした。まずそちら優先でどうぞです。私はひとまず撤退いたします。

mrcmsさん
模倣道に掲載している「テキスト」及び全ての「音源」が、いかなる証言よりも如実に、赤裸々に私の音楽見識とスキルを現すと思ったのですが。。。。
「証言」が必要ですか?エントリー108のそのような文章に何か意味はありますか?
今の音楽業界には、アマ以下のプロも、プロを凌駕するアマもたくさんいますよね。

>赤裸々に私の音楽見識とスキル
アナライズと創作は別の分野です。
>アマ以下のプロも、プロを凌駕するアマ
はい。意識が、ですね。
申し訳ないのですがその意識がJ2さんの書いたものから見当たりません。それとも何かほかの判断基準があって言ってらっしゃいますか?
それより孝好さん、福田さんのコメントにぜひレスをお願いします。とても興味あります。
(といいますか反論は出来ないと思いますが。なぜなら、それらのコメントに反論するということは、ますます「意識が見あたらない」ということを証明することになりますので)
そのコメントを頂くまで私のレスは控えさせていただきます。レスがなければ私の書き込みもこれで終わりです。

>mrcmsさん
>アナライズと創作は別の分野です。
全ての音源を聴かれた上でおっしゃってますか?
創作もしてますよね?あれは創作とは認められないと?
そう思われるのは自由ですけど。「単なる」アナライズではないことは、理解できる方には理解していただいてます。
>孝好さん
>演歌はJAZZやヒップホップじゃないっすよね。
おっしゃるとおりです。そしてそこは重要なポイントだと思います。
あらためて言いますが、ここでは一般化した「音楽」について語っています。現代ポップミュージックと「同一性保持」思想の根本的な齟齬について、です。
しかし、多くの演歌作家にとっては馴染みのない世界だとは思います。
重要なのは、本来「演歌」ももっと進化して然るべきだということです。昨今のセールスの大幅な落ち込みは演歌などは特に顕著ですが、演歌に携わる人々の「問題意識」の低さも一要因であると思ってますし、JASRACの問題も、首脳陣が「演歌組」で締められているのが大きな要因と個人的には考えてます。
福田さんにはレスの必要を感じてませんでしたが、mrcmsさんのご要望ですから、一言だけ言っておきましょう。
正直、福田さんはインプロビゼーションの経験がおありでないか、もしくは「スジナシ」を見たことがないか、その両方か、という感想です。
>決められたメロディ
決められたメロディを演奏するのは、インプロビゼーションとは言いません。
>コード進行に則って演奏されます
その枠組みは、スジナシでのキャラクタ設定、舞台設定の「フレーム」と同程度です。フリーJAZZだと「制限」が無さ過ぎる感じを持ちます。
JAZZによるインプロビゼーションを経験したものであれば、限られた時間、条件で「自分」を表現し観客を納得させるあのプレッシャーが、「スジナシ」での緊張感と共通するものである事を、直感的に理解していただけると思ったのですが。
>JAZZミュージシャンは既存音楽を分解しようなどとは考えていません。
私もそんなことは一言も言ってませんよ。
あと、あなたのエントリーにも一言言わせて頂ければ、こちらが著作人格権の話をしているときに、編曲権や翻案権の話を持ち出されてもまったく議論になりません。まず、人格権と財産権をはっきり分けて議論することが重要です。
それに私はオリジナルを蔑ろにしていいなどということも一言も言ってません。

>創作とは認められないと?
この辺言い出すとキリがないのでひとまず置いておきます。
あなたが本当に音楽を職業とされている方ならこのエントリはあなたの本意ではないとあなた自身が一番良く判るはずです。子供や素人さん相手にレトリックでごまかそうとも今どきそんなことは流行りませんぜダンナ。
つまり「同一性保持」とはあなたがここで書いているようなことを問題にするものではない、ということ。完コピ&ジャズ云々は、判りやすい結論に持っているく為の詭弁ですよね?素人さんは「はぁなるほど」と思いますから。でも事実は違いますね?J2さんはお分かりですね?確信犯ですね?
そうでないとすれば、あなたの考える音楽とは、現実とは非常にかけ離れたものであると思われます。その偏見がジャズを一般人から遠ざけた最たる理由です。
とりあえず、お互い多忙でしょうからここまで。笑。

J2さん、ご返信頂き光栄です。
>正直、福田さんはインプロビゼーションの経験がおありでないか、もしくは「スジナシ」を見たことがないか、その両方か、という感想です。
私は現在、作編曲、トラックメイキングなどを仕事のメインとしていますが、かつてはJAZZのプレイヤーとして活動していました。なのでインプロビゼーションの経験がない、ということはありません。「スジナシ」というのは「台本無し、打ち合わせ無し、NG無しのぶっつけ本番、一発勝負のアドリブ即興ドラマを行う(はてなキーワードより)」ことではないのですか?
>決められたメロディを演奏するのは、インプロビゼーションとは言いません。
JAZZは一般的にまずテーマ(メロディ及びコードもしくはモード)があって、それを元にインプロバイズしていきます。ここでそのテーマとなるメロディは決められています(もちろんテーマはフェイクして演奏しますが)。
>その枠組みは、スジナシでのキャラクタ設定、舞台設定の「フレーム」と同程度です。
いや、それ以上でしょう。テーマの存在とコード進行とがかなりの度合いでインプロビゼーションの方向性を決定づけますから。
>「スジナシ」での緊張感と共通するものである事を、直感的に理解していただけると思ったのですが。
「スジナシ」は演じた経験はありませんが、JAZZは一般の方が思っていらっしゃる以上に予定調和の世界だったりしますよ。暗黙のルールがたくさんあるんです。もちろん緊張感はありますが、「台本無し、打ち合わせ無し、NG無しのぶっつけ本番、一発勝負のアドリブ即興ドラマを行う」とは同じだとは思えません。
>あと、あなたのエントリーにも一言言わせて頂ければ、こちらが著作人格権の話をしているときに、編曲権や翻案権の話を持ち出されてもまったく議論になりません。まず、人格権と財産権をはっきり分けて議論することが重要です。
同一性保持権も編曲・翻案権も「勝手に改変しないで」という作者のシンプルな主体性を背景に持つという共通のフェーズにおいては特に区分けする必要はないと思います。というのも、あなたは『そもそも同一性保持の概念は「音楽」にそぐわない』というフェーズでエントリをお書きになっているわけで、そんなことを言ってしまえば、『そもそも編曲・翻案の概念は「音楽」にそぐわない』という言い方だってできるわけでしょう。JAZZなんてリアルタイム編曲/翻案なわけですし、サンプリングミュージックだってテクノロジカルな編曲/翻案なわけすから。
>それに私はオリジナルを蔑ろにしていいなどということも一言も言ってません。
オリジナルを蔑ろにしていないのであれば、「勝手に改変しないで」という作者の気持ちはお分かり頂けるかと思うのですがいかがでしょう。同一性保持の「概念」を否定なさるのであれば一体、何によって「勝手に改変しないで」という作者の主体性は守られるのでしょうか。また、「いつも心配かけてばかりいけない息子の僕でした」というバースの追加に関して「天丼の横に漬物の小皿を置いただけだ」などと断言なさっているので、それを読んで「オリジナルを蔑ろ」にしていると感じる人がいても特段、不自然ではないと思いました。

訂正です。
誤)『そもそも編曲・翻案の概念は「音楽」にそぐわない』という言い方だってできるわけでしょう。
正)『そもそも編曲・翻案の権利の専有の概念は「音楽」にそぐわない』という言い方だってできるわけでしょう。

川内氏問題に関するブックマークから感想。

せっかくなので個別の感想などをひとつ。 memorandum – 日本人は「ゆがんだ著作権意識」で洗脳されてなどいない オリジナルを作ったクリエイターも基本的…

 「バース付きバージョン」が「改悪」だとするのは、川内氏側の一方的な見方であって、実際には30年以上前から「バース付きバージョン」が歌い継がれ、森進一のファンらがこれを受け入れてきたのだとすれば、むしろ「改良」だったというべきではないかとすら思ったりはします(バース部分の作詞、作曲とも、一流の作詞家、作曲家が行っていますから、そのこと自体は意外ではありません。)。

おもしろいので読んでいたら小倉先生がカキコミされていてビックリです(w
JAZZのインプロについては、JAZZの内訳がまことに広いので、立場事に見解が全然違っちゃうんじゃないでしょうか? それがもとでミュージシャン同士でケンカしたりしますからね(爆

>小倉先生
なんと、ごぶさたしております。
直々にコメントいただけるとは光栄です(笑)
小倉先生独特の言い回しですが、諸手を挙げて賛同します。
創作者の「意志」を重視すべきとおっしゃる方々が、なぜか保富氏の様な一流の作詞家の「創作」を歯牙にもかけず結果的に侮辱している事に気付きもしないこの状況が興味深いです。
COMAPさん>
JAZZに関してはおっしゃるとおりです。時代によってもインプロビゼーションのあり方は全然違いますし、そもそもそんな議論をしたいわけじゃないのですがねー。細かい話をしだしたらキリがないです。

J2さん
実は2chのJASRACスレから誘導されてきたんですがw 興味深い切り口だと思って読んでました。

>なぜか保富氏の様な一流の作詞家の「創作」を歯牙にもかけず結果的に侮辱している事に気付きもしないこの状況
その創作が一流の保富氏であろうが何流なのか不明なJ2某であろうが同じです。川内氏の意向を無視してることにはかわりがない。保富氏を侮辱しているわけではない。
これはJ2さんに対してのコメントではなく、ここを読む方へのコメントです。
基本的にJ2さんは何もわかってない人(あるいはそう装っている方)だと理解しましたのでこの一言だけ。

侮辱したしないの話もあるんでしょうけど、この問題で疑問なのが、改変バージョンのリリースが歴然と存在していて、J2さんが引っ張ってるように、JASRAC会員であるところの(たぶんw)作詞家がバース箇所を書いているわけですから、川内先生と当時の音楽事務所の間に何のやり取りもなかったなんて普通はあり得ないと思うんですけどね? そこのあたりはほとんど話に出ませんよね、なぜ? 小倉先生はご自身のブログで周辺を書かれました。
改変バージョンがリリースされてるんだから、その内容が無断改変による著作権者無視だとなれば、歌った歌手なんかより出したレコード会社が一番の元凶だと普通なるでしょう。

うん。逆に言うと保富氏を侮辱したくなかったから(亡くなるまで)待ってたという想像も出来る。川内氏が相手にしたかったのは森氏だけなんだよね。こういう話は森氏本人からの挨拶があって然るべきと思ってたんだろう。
プラス長年の不義理と素行を正せるのは自分だけだ、と思って実行した、と。かいじん21面相へのメッセージと同じように。猫に鈴を付けられるのは自分だけであると。ま一種の正義感のような感じでしょうな。>COMAP氏

mrcmsさん
川内先生の個人心情より法的な一般問題ですよね。一歌手の森進一の責任追及は、改変リリースが違法かどうかを扱ってからでは?となりますでしょ。これまで改変リリースは違法扱いになってない以上、森進一は当然歌ってOKだと(レコード会社と川内先生の間で話は付いているものだと)思っていたとしても不思議でも何でもないですよね?

なるほど。
著作者は常に権利を行使できる立場にあるんで、しかしウチのブログで書いたように、面倒だとか、普通はそんなことしないから、といった理由でしてなかっただけだと思う。そういう意味では、個人心情が川内氏をそうさせたと言えるし、著作者を怒らせたら行動に出るものだ、と世の中に示した意味はでかいと思う。
ついでに前のコメントに補足しておきます。
>保富氏を侮辱したくなかったから
これは正確には、
>保富氏を侮辱した、と捉えて欲しくなかっらから

>27: 小倉秀夫さん
>「バース付きバージョン」が「改悪」だとするのは、川内氏側の一方的な見方であって、実際には30年以上前から「バース付きバージョン」が歌い継がれ、森進一のファンらがこれを受け入れてきたのだとすれば、むしろ「改良」だったというべきではないかとすら思ったりはします
ある意味おっしゃる通りですね。しかしながら「川内氏側の一方的な見方」を斥け「森進一のファンら」の支持の有無を試金石とした場合、「聴衆の支持さえ得ることができれば無断改変してもよい」という帰結に至ってしまうのではないかと危惧してしまいます。そうなってしまえば、例えばJ2さんが言及しておられるサンプリングミュージックにしたって、「聴衆の支持さえ得ることができれば無断サンプリングしてもよい」などという、これまでのサンプリングを巡る幾多の訴訟さえも水の泡と化してしまうような風潮が醸成されてしまうのではないでしょうか(幾多のサンプリング訴訟を経た今日では業界内における版権意識が醸成されているだけに)。
>29: J2さん
>創作者の「意志」を重視すべきとおっしゃる方々が、なぜか保富氏の様な一流の作詞家の「創作」を歯牙にもかけず結果的に侮辱している事に気付きもしないこの状況が興味深いです。
私のことをおっしゃっているのであれば「歯牙にもかけず」というのは語弊があるように思います。保富氏のバースの「創作」部分に関してはNo.2のコメントにて問題にしたつもりです(つまり、「歯牙にかけた」)。したがって「歯牙にもかけず結果的に侮辱」という言い方は当てはまらないように思うのですが、もし他に「侮辱している」と断言なさる根拠がおありでしたら、お聞かせ頂けると参考になるかと思います。

音楽と同一性保持。

音極道茶室: そもそも同一性保持の概念は「音楽」にそぐわない この件まとめ。 読みやすいようにひとつのエントリにまとめて書いておく。 まず彼が取り上げてるとこ…

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